最低映画特集は過去に何度かやっていますが、今回はその中でも
本当にまじめに作ったのか?と問い詰めたくなる作品を中心にセレクトしています。
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バトルフィールド・アース
原作はトム・クルーズも信者の宗教『サイエントロジー』の創始者、L・ロン・ハバードのSF小説。それを同じくサイエントロジー信者ジョントラボルタが私財を投げ売って(投げ捨てて?)映画化した今作。
『バトルフィールド・アース』は決して笑わせようだとか思ってなく、至って真面目に作られたSF映画なのですが、その割には突っ込みどころ満載。。
ちなみにジョントラボルタ主演とのふれこみではあるものの、主人公はバリー・ペッパー演じる地球人のジョニー。トラボルタはあくまで敵の宇宙人、サイクロ星人という役柄です。
が、はっきり言ってアホ。
例えば地球人のなかでも特に反抗的な主人公のジョニーにあろうことか、サイクロ人の言語から文明まですべてを教えてしまう。
ほかにも採掘された金が延べ棒になっている(実際はよその金の貯蔵庫から延べ棒を運んでいただけ)ことを、『延べ棒に加工した方がサイクロ人にふさわしいと思って』というジョニーの良いわけをそのまま信じてしまったり。
挙げ句のはてに、ドームを脱出したジョニーたちが空腹に耐えかねて食べたネズミを『地球人はネズミが好物なのか!』と勘違い。
1000年以上もサイクロ星人は地球にいたのなら、なぜ地球人の好みくらい把握できていないのか?などなど・・・。
みんなでツッコミながら観るのが正しい『バトルフィールド・アース』の観賞法かと思います。
ちなみに、地球を9分で制圧したとされるサイクロ星人ですが、サイクロ星人の母星、サイクロ星は地球人によって30秒くらいで爆発させられました。
ジャックとジル
個人的にアダム・サンドラーがあまり好きな俳優ではないんですが、それはこの映画が理由かなと思います。
なんといっても史上初 ラズベリー賞(ラジー賞)全部門制覇という偉業(?)を成し遂げた作品。
最初ボーッと見てて、ジルという、アダム・サンドラー演じるジャックの双子の妹が出てくるんだけど、ジルもアダム・サンドラーが一人二役で演じてて、、、いやーキツイっす。
あれ?これギャグなのかな?と思って見てたけどどうやらマジ。
マジか?!と観てるこっちが思いました。
現実的に一卵性の兄妹でももーちょっと違うものになるだろうに。。。
この時点で女装ネタのコラムに追加決定(笑)。
いい点としてはアル・パチーノがここまでコメディな役回り、演技もできるなんて!という驚きがありました。もちろん名優であるのはわかっていますが。。
しかしこの作品はただただアル・パチーノのキャリアを台無しにするだけでしかないんじゃないの?と思ったりもします。
だっていくらなんでも女装にしか見えない人に惚れないっしょ?!
ウルトラ I LOVE YOU
本作でサンドラ・ブロックはラジー賞を受賞しましたが、ラジー賞授与式に実際に出席、しかも壇上でこう語っています。
「あなたたち、本当はこの作品観てないでしょう! 来年このトロフィーを返しに来るから、それまでにこのDVDを観ておいてちょうだい。」
確かに観もせずに批判するのはよくない!
というわけできちんと鑑賞してみました。
が、結局終盤まで本当に主人公に感情移入も共感もできませんでした。だってただの雑学女王の変わり者だし。
この『ウルトラ I LOVE YOU』公開時のサンドラ・ブロックは45歳。ブラッドレイ・クーパーより一回りくらい年上なんです。
それであんな派手なカッコで10代のようにアピールされたらそれは怖いですよ。やっぱり。
終盤以降は映画の目線が変わってきてやたらサンドラ・ブロックを持ち上げるような目線に変わるんですよね。それでやっと少しは感情移入できるかなって感じです。
変わり者のストーカーでも命の危機とあればそれは助けようとしますよね。。。
ロッキー5
『ロッキー5』は当時、「ロッキー」シリーズの完結作として公開された作品です。
「ロッキー」と言えば、その登場によって当時隆盛を誇っていたアメリカン・ニューシネマを終わらせたと言われるほどの熱狂をもって迎えられた作品。
無名の役者だったシルヴェスター・スタローンは「ロッキー」の成功によって、劇中のロッキー同様、一夜にしてアメリカン・ドリームを掴むことに成功するのです。
しかし、好評を得て製作された続編の数々も回を増す毎に評価は下がり、とうとう『ロッキー5』でそれは底まで落ちてしまいました。
その象徴がクライマックスのストリート・ファイト。
映画を観るとわかりますが、これボクシングではなくてなんでもありのファイトなんですね。タックルや蹴り、果ては後ろから殴りかかるなど、スポーツマンシップすら喪失のホントただのケンカ。
いや、いくらストリート・ファイトとは言えど、自然発生的にタイム・キーパー役やゴング役が出てきたり、暗黙の了解で架空のロープとリングエリアが設定されたり、あくまでボクシングだと想像してたんですよ。
ロッキー自身、『ボクシングが無かったらただのゴロツキ』って一作目で言ってたにも関わらず、これじゃホントに町の迷惑オヤジ。
ちなみにファイトが終わり、警官が駆けつけ、なぜかトミーだけに手錠をかけます。なぜ??普通に暴れたもう一方の張本人、ロッキーも捕まるのが当たり前と思うのですが。。敵役とはいえ一般人を殴ってるし。
かのように最低評価の『ロッキー5』。
そう考えるとのブランクを開けて製作された『ロッキー・ザ・ファイナル』での復活は正に奇跡と言えるでしょう。
ギャラクシー街道
三谷幸喜、どうした!?と思わず叫びたくなる駄作。個人的にも三谷作品のファンなだけに余計そう思います。しかしある意味贅沢な映画だも思います。
二時間弱の大がかりなコントだと思えば。
三谷幸喜作品には安心感があります。誰にも受け入れられやすい、際どさの少ない良質なコメディとどんなトラブルも回収してハッピーエンドへ向かうカタルシス。
ただ、ある意味で作る側にはそれが窮屈だったのでしょうか?
一応、出産シーンがクライマックスになるのでしょうが、出産自体も何の伏線もなく、突然勃発した事態(一応おでこを擦り合わせるというのはありますが)。
小栗旬の変身後のキャプテン・ソックスも期待はずれに終わり、なんだか肩透かしを食らったような印象を受けます。
とにかく出てくるギャグの一つ一つが丁寧にスベっているんです。本来そういうギャグセンスもきちんと持ち合わせているはずなのになぜ・・・。
願わくば、願わくばなんですけど、いつかこの映画が北野武監督の『みんなやってるか~!』的な立ち位置として『愛すべき駄作』になることを願ってやみません。
この映画を撮ることで三谷幸喜監督自身のガス抜きができた、、、せめてそうではないと擁護できんなぁと。。
本能寺ホテル
本当になんでも台詞で説明してしまう、日本映画のダメなところが顕著に出てる作品。
なんでも説明するがゆえに、台詞そのものも不自然だし、それは映画全体の不自然さにも繋がっていくことを本当に少しは理解した方がいいですよ。
だって私たちのリアルな日常に『不自然な会話』ってほとんどないですよね。
綾瀬はるか演じる繭子の言動ですが、常識的に考えて、初対面の人に聞かれてもいない恋人との結婚の話とかするはずがないじゃないですか。それもいきなり「恭一君が~」とか、自分にしかわからない名前をいきなり出すのは普通の会話としてもありえないと思います。
観客に繭子の状況を説明するためのセリフなのですが、正直めちゃくちゃそれが鼻につくんです。
フジテレビのコメディ映画の悪いところってそこで、いつまでもバラエティの感覚が抜けきれないのか、分かりやすくしよう、すべてセリフ(とかテロップ)で伝えてあげよう、という考えが透けて見えるんですね。
もちろんそれが必要な場合もあります。
しかし、何でもかんでも説明するというのはあまりに芸がない。何よりリアリティに欠けるので醒めてしまうんです。
コメディならコメディでもっと『本能寺の変』の謎、明智光秀はなぜ織田信長を襲ったのか?という部分にもっと切り込んでいったほうが面白かったでしょうし、これではただ単に主人公が一人でドタバタしてるようにしか見えないんですよね。
信長らは繭子から明智光秀の謀反を事前に聞いていても悠然と構えている。
繭子の影響ってそんなになかったんじゃないかな?と思うんですね。ただ主人公が騒いでいるだけの印象ですね。
踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!
これもフジテレビ製作の、本当に客をなめてるとしか思えない作品。
踊る大捜査線って、僕はドラマ版や、劇場版の一作目は好きなんですが、2作目以降あまり評価してないです。
踊る大捜査線の魅力は警察のリアルな描写を行い、犯人逮捕だけではない、所轄と本店の力関係や、そこでの軋轢みたいなものまでドラマとして取り込んだことだと思うんですね。
いうならば、リアルさをエンターテインメントに上手く昇華したこと。
しかし、今作の提示する「エンターテインメント」とはあまりにお粗末かつ幼稚だと言わざるを得ません。
とにかく、それまでの犯人勢ぞろいさせておけば盛り上がるだろうという安易な脚本。
「アベンジャーズ」も「ゴジラ FINAL WARS」もそうですが、そういう安直な気持ちで作られた作品ってあまり観る気がしません。
伊藤淳史演じる和久伸次郎がこれまたウザい。いちいちわざとらしく和久(いかりや)のセリフを言いまくる。そんな人間、頭がおかしいと思われるのが普通です。
なぜこんなバカげた演出がまかり通るのか、本当に疑問。
踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望
ファンの方には申し訳ないですが、コレも加えさせてください。
ハッキリ言って題名と真逆の内容。深津絵里演じる恩田すみれは劇中死亡したと思しき描写がありますが(監督は「すみれは既に死亡しており、最後に登場したのは幽霊か幻」と見えるように意図したことを認めている)ヒロインを死亡させておいて「新たなる希望」もクソもないと思います。
ハッキリ言ってシリーズの最期を締めくくるにふさわしいとは到底思えないひどい出来の作品。
謝罪の王様
途中までは面白かったんですが、個人的には結末がとても残念に感じました。
前述のように、序盤のエピソードでは阿部サダヲ演じる黒島譲がユニークかつある意味理論的な謝罪で事を収めていくんですが、クライマックスは国家間のトラブルを収めるための謝罪。
文化も慣習も言語も違う国で、黒島譲の仕掛ける謝罪方法はことごとく裏目にでます。
そこで、トラブル相手の国・マンタン王国で『土下座を越える謝罪』として紹介されるのが、、マンタン王国の言葉で最上級の謝罪の言葉『ワキゲボーボージユウノメガミ(脇毛ボーボー自由の女神)』というのですが、個人的には納得いかない。。
二時間映画を見せておいて、小学生レベルのギャグをクライマックスの解決策としてもってくるのはいかがなものでしょうか。正直かなり醒めました。
トラブル相手の国がマンタン王国という架空の国の設定なのも、結局はこの台詞をつかいたいがためなのでしょう。
台詞も含めてその発想は安易すぎると思いますし、『これで観客が楽しんでくれるだろう』と考えるのであれば、それは観る人をバカにしているのではないでしょうか?
例えばラーメン屋でかつて黒島譲に謝罪を要求された元店員の船木は、数年ぶりに黒島譲に会いに来て、『土下座を越える謝罪』として『ワキゲボーボージユウノメガミ』と伝えるわけですが、それはあくまでマンタン王国でのケースに限定した場合だと思うんですよね。
それを日本人同士で果たして使う意味があるのか?ということです。単に言いたかっただけではないのか?と思ってしまいます。