ジェームズ・キャメロンの出世作となった『ターミネーター』。
今回はターミネーターがなぜこれほど強力なコンテンツでありつづけるのかをシリーズの振り返りを踏まえながら解説していければと思います。
『ターミネーター』シリーズの変遷や、そこに込められた意味や時代性、そして魅力を見ていきたいと思います。
まずは1984年に公開された第一作目の『ターミネーター』から。
『ターミネーター』
この作品の始まりにはキャメロンの初監督作『フライング・キラー』の失敗がありました。
前任の監督の後任として招聘されたキャメロンでしたが、わずか5日で降板となり、全く彼の思うような作品作りはできず、それでも映画のクレジットの変更も認められず、キャメロンにとって深い傷を残すデビューとなりました。
この経験から見た悪夢が「サイボーグが自分を殺しに来る」という内容のもの。
そのアイデアを膨らませ、『ターミネーター』という作品に結実したのです。
この作品には低予算ゆえの斬新な発想や設定が多く詰まっています。
・未来から現代へターミネーターがタイムスリップする
・ターミネーターの表面は生きた細胞に覆われており、人間と区別できない
これらは未来世界とロボットをテーマにしたSF映画だと必然的に制作費が高くなってしまうことを抑えるための苦肉の策でもありました。
しかし、その斬新さがまた新鮮だったのではないでしょうか。
さて、本作でブレイクしたのはキャメロンだけでなく、ターミネーターT800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーもその1人。もともとオーストリアの出身で、英語にも訛りがあったため、俳優としてのキャリアがいまいちパッとしなかったシュワルツェネッガーですが、無口なターミネーター役は彼にとってまさにうってつけの役柄でした。
当初はキャメロンからカイル・リース役をオファーされたという経緯があるものの、キャメロンとの会食中にシュワルツェネッガーがT-800について様々なアイデアをのべたところから、キャメロンはシュワルツェネッガーこそターミネーター役にふさわしいのではないかと考えるようになります。
のちに作品を追うごとに台詞の量も多くなるなど人間らしさが増していくようになりますが、やはりこの『ターミネーター』のターミネーターこそが機械らしさが一番現れているように思います。
ただ、もし今現在、人間とマシンの戦いを描くとしたらマシンはロボットタイプになるでしょうか?
ネットが普及し、さまざまなことをシステムやAIが代替するようななりつつある今、『マトリックス』のようにシステムをそのままマシンが支配するようにする方が現実的ではないでしょうか。
2000年代の映画にはその傾向が顕著であり、2004年の『アイ,ロボット』では街の根幹的な保安システムであるVIKIが暴走し、人類を支配下におこうと画策するストーリー、また2007年の(こちらはマシンではなくテロリストですが)『ダイ・ハード4』でも町中のシステムをコントロールすることで人々をパニックに陥れるという設定でした。
ではなぜターミネーターの世界はいまだに多くの人に愛されているのでしょうか。
それは『ターミネーター』の恐怖はいつの時代も変わらない普遍的な恐怖を描いているからでしょう。
T-800の無表情でどこまでも冷徹に、どれだけ傷つこうが破壊されようが執拗に追い詰めていく、その恐怖感、スリル、そういった要素はいつの時代も変わらないもの。
昔の人が夜道で自分の影に怯えたように、どこまでも決して離れずに追いかけられる恐怖。
個人的には『エイリアン』の影響を強く感じる作品でもあります。
人間と見分けのつかないアンドロイドという設定もそうですし、一旦終わったかに見せかけて、最後にまたバトルが用意されているという構成もそっくりです。
また『エイリアン』のヒット後、その続編を任せられたのも他ならぬジェームズ・キャメロンでした。
『ターミネーター2』
ヒット作となった『ターミネーター』ですが、その続編が作られるまでには7年の時間を要しています。
それは『ターミネーター』の権利が複数の会社に散逸してしまっており、それを集めるのに時間がかかったことが原因でした。
当初、ジェームズ・キャメロンの頭にあったのは「少年とターミネーター」というアイデアでしたが、それ以外にも冷戦の終わりも今作には大きな影響を与えています。
現実社会において60年代の宇宙開発は米ソの代理戦争と呼ばれるほど、互いに技術力の差がそのまま国力の差に繋がった出来事でもありました。
第1作目の『ターミネーター』は、まさしく技術がそのまま脅威となって襲いかかってきますが、『ターミネーター2』ではそれまで敵だったが味方になるなど、技術の脅威よりも、人間とは何か機械が命の尊厳を学べるのかをテーマにしています。
第一作では悪役だったの善人への転向は、ブレイクしたシュワルツェネッガー人気を反映してのもの。
一方で悪役のT-1000を演じたのは、ロバート・パトリック。当初のターミネーターの構想だった「一見ひ弱そうに見えるが実は強い」という設定を実現したキャラクターとなります。
このT-1000は液体金属という設定のターミネーターであり、『対サイボーグ』という映画ジャンルにおいてはいまだにこの設定を越えるインパクトあるサイボーグは現れていないように感じます。
また、本作にも聖書からの引用がみられれます。
人類の救世主となる少年、ジョン・コナーのイニシャルはJ.K.でこれは同じく救世主(メシア)と呼ばれたイエス・キリストを連想させます。(jc)
当初のエンディングは審判の日が訪れない未来で、ジョン・コナーは上院議員となり、違う形で戦い続けていることを老婆となったサラ・コナーがテープに吹き込んでいるというエンディングでした。
『ターミネーター3』
前作『ターミネーター2』から実に12年ぶりとなった『ターミネーター3』。一般的には苦い評価の作品です。一方で同時に『ターミネーター』シリーズとは何かを強烈に意識させる作品になったのは確かです。
というのは『ターミネーター』シリーズのツボをことごとく外している点。
T-Xの対ターミネーター用のターミネーターという設定は面白いものの、女性タイプという必然性がなく、かつ機械の骨格を液体金属で覆うという設定も『ターミネーター2』のT-1000ほどのインパクトはありません。
またストーリー自体も『ターミネーター2』の劣化した焼き直しになってしまっていることや、T-800の表情がターミネーターというよりは、演者であるシュワルツェネッガーの人間らしさが現れてしまっているような印象を受けます。
では『ターミネーター3』の意義とは何でしょうか。『ターミネーター3』ではスカイネットを分散型のコンピューターウイルスのようなものとして定義しなおしています。
『システムの中枢なんてない、だから破壊できない』とジョン・コナーの台詞にもありましたね。
『ターミネーター2』は少年ジョンコナーの成長物語であり、『ターミネーター3』は一介の若者から指導者としてのジョン・コナーに成長する物語でもありました。
しかし、広く受け入れられた『ターミネーター2』に比べ、『ターミネーター3』のジョン・コナーには否定的な意見も目立ちます。
その理由としては、ジョン・コナーを演じたニックスタールの顔立ちがエドワード・ファーロングとは違う系統であったこともあるかとは思いますが、人類の救世主となるはずであった男が日雇い労働で自堕落な若者に成り下がっていたことによって、ジョンコナーの持っていたヒーロー性を打ち砕いてしまったことが挙げられます。
『ターミネーター2』でT800との別れの際に涙をこらえながら「行くな」と命令したジョン。わずか10歳の少年ながらも指導者としての側面が垣間見れた瞬間でした。
しかしながら『ターミネーター3』ではとことん落ちぶれた姿で登場してしまうのです。
ここからジョン・コナーというキャラクターの変質が始まります。
一作目で語られるジョン・コナーとは、追い詰められた人類にとっての唯一の希望であり、救世主でした。正に今日のイエス・キリストのようなイメージです。
対して3作目以降は言わば「史的イエス」ともいうべき描かれ方であり、一個人としてのジョン・コナーの実像が描かれています。
この実像としてのジョン・コナー、それもまだ青年であり、人類を指導する立場にはない時期のジョン・コナーに『ターミネーター』シリーズの重圧を耐えるだけの力があったのか?と思います。
カイル・リースには命を懸けてサラを守るという任務があり、サラ・コナーにとっては命を懸けてジョンを守るという使命がありました。
『ターミネーター4』
もちろん『ターミネーター4』ではジョンは若き日のカイルを見つけ出し、守り抜くという使命があるにはあるのですが、二人の共演シーンは短く、カイルの保護者としてはマーカスの方が長い時間をカイルと過ごしています。
結局のところ、ジョン・コナーは人類全体を救う役割を負っているわけですが、それよりも身近な1人を守る方が観客はキャラクターに感情移入しやすいのかもしれません。 ジョン・コナーは作品世界における最重要人物でありながらも、映画としての『ターミネーター』シリーズを引っ張っていけるキャラクターではないのではないか。
『ターミネーター:新起動/ジェニシス』
それを検証したと言えるのがリブート作の『ターミネーター:新起動/ジェニシス』であるでしょう。
この作品は物語の主人公を再びカイルとサラに戻し、なおかつジョン・コナーを悪役に配するという、ジョンのこれまでの設定を全て覆す大胆なアイデアを採用しています。
このことからも作品の求心力をジョン・コナーに求めていないことは明らかです。
『ターミネーター:ニュー・フェイト』
監督のティム・ミラーはジョンのことを『可能性を秘めた子供』だとしていますが、この言い方は「成長した大人のジョン」は含まれていないということを付記しておきます。
『ターミネーター』シリーズの魅力
ただ、それでも今作を観ると『ターミネーター』シリーズの何が魅力だったのかは改めて浮き彫りになってきます。
それは追う/追われるのスリル。そして大事なものを命を犠牲にしても守ろうとするキャラクターたちの想いに私たちは胸を打たれるのではないでしょうか。
そうなると、それらを兼ね備えているのは『ターミネーター』、『ターミネーター2』『ターミネーター:ニュー・フェイト』しかありません。
『ターミネーター』ではアーノルド・シュワルツェネッガー演じるはどこまでもサラ・コナーを追跡し追い詰めていきます。それに対してカイル・リースは命を犠牲にしてもT-800を倒そうと奮戦するのです。
『ターミネーター2』ではいよいよ本格的に「未来を変える」ことが大きなテーマとなっていきます。
前作でのカイル・リースの役回りはT-800が担い、その命を犠牲にして未来を変え、ジョンに希望を教えるのです。
『ターミネーター3』ではそう言った意味での人物はいませんし、『ターミネーター4』ではマーカスがその役に一番近いのですが、演出が淡々とし過ぎていて、剥き出しの熱さが不足しているように感じます。
『ターミネーター:ニュー・フェイト』はグレースが犠牲となるキャラクターなのですが、その身を盾にしてダニエルを守り続ける様子をストーリーのなかで見せ続けることで、ダニエルのグレースへの信頼関係も観客に無理なく受け入れられるでしょうし、別れのシーンの涙や演出も多少大袈裟であろうと、それまでの信頼関係や紆余曲折のドラマを見せられた観客には感動的にすら感じられることでしょう。
やはり『ターミネーター』シリーズの中心にあるのはSF映画としてのリアリティではなく、ヒューマニズムなのでしょう。
B級映画としてスタートした『ターミネーター』シリーズですが、その設定の斬新さももちろん大きな魅力ではあったと思いますが、人の心に訴えかける普遍的な恐怖やスリル、愛情が高い純度でスクリーンに反映されていたこそ、これだけのシリーズに繋がっているのだと感じます。