『わらの犬』は1971年に公開されたサム・ペキンパー監督のバイオレンス映画。
普通の男が追い詰められ、暴力に手を染めていくストーリーです。
主演はダスティン・ホフマン。
暴力描写の強いサム・ペキンパー監督の作品のなかでも特にその描写が激しいと言われている作品です。
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『わらの犬』のスタッフ・キャスト
監督
サム・ペキンパー
脚本
サム・ペキンパー
デヴィッド・Z・グッドマン
原作
ゴードン・M・ウィリアムズ
『トレンチャー農場の包囲』
製作
ダニエル・メルニック
出演者
ダスティン・ホフマン
スーザン・ジョージ
『わらの犬』のあらすじ
数学者のデイヴィッド・サムナーと妻エイミーは物騒な都会生活から逃れるため、妻の故郷でもあるイギリスの片田舎に引っ越してきた。だが、いざ蓋を開ければ村の若者たちから嘲笑を浴び、嫌がらせを受ける毎日。彼らにひとこと言うようにエイミーからけし掛けられても、気弱なデイヴィッドは取り合おうとしない。ある日、精神薄弱者のヘンリーを家に匿ったことから、彼をリンチにかけようとする若者たちの総攻撃を受ける。知人であるスコット少佐が仲裁に入るも、揉み合った挙句に撃ち殺されてしまう。それを見たデイヴィッドの中で、何かがはじけた。恐怖に脅えるエイミーが止めようとするのにも構わず、デイヴィッドは次第に暴力の渦に飲み込まれていくのだった。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%AE%E7%8A%AC
わらの犬 – Wikipedia
感想・レビュー
サム・ペキンパー監督のバイオレンス映画。
普通の男が追い詰められ、暴力に手を染めていくストーリーです。
血まみれのサムと呼ばれるほど暴力描写の強いサム・ペキンパー監督の作品のなかでも特にその描写が激しいと言われている作品です。
暴力の本質を描いた映画
暴力の本質を描いた映画としては一例としてミヒャエル・ハネケ監督の『ファニー・ゲーム』があります。
『ファニー・ゲーム』自体「観客を憤慨させるために作った」とのことで、こちらは理不尽な暴力を受け続ける一家を通して、暴力からエンターテインメントの仮面を剥ぎ取り、その痛みや不快さのみを純粋に観客に感じさせようとした作品です。
あまりに凄惨な暴力描写のためカンヌ国際映画祭では上映中に席を立つ観客がいたり、ロンドンではビデオの発禁運動まで起こったとい逸話もあります。
『ファニー・ゲーム』でハネケが問うているのは暴力が「アクションシーン」としてエンターテインメントになってしまっているのはおかしいのではないか?ということ。
比べてサム・ペキンパーの『わらの犬』では暴力の誘惑を描いています。
トマス・ホッブスが「リヴァイアサン」の中で人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」としているように、人間の中に闘争本能があることは疑いようのないことだと思います。
確かに人間の祖先である猿の仲間のチンパンジーには殺しあう習性があることがわかっていますし、人間の歴史を見れば、それは戦争の歴史だったということもできるでしょう。
前述のトマス・ホッブスの生きた時代も戦争と革命の多くあった時代でした。
『わらの犬』の内容
さて、『わらの犬』に話を戻しましょう。ダスティン・ホフマン演じるデイヴィッドと妻のエイミーは、都会での生活を離れ、エイミーの育ったイギリスの片田舎に引っ越してきます。
妻のエイミーを演じるのは、 スーザン・ジョージ。当時は20歳位だと思うのですが、めちゃくちゃセクシー。おまけに色々と無防備だったりするのですが、それが後に大きな悲劇に繋がっていきます。
都会からきたデイヴィッドを町の若者たちはからかい、嘲笑し、ちょうはつさえしてきます。
しかし、それでも何も言い返そうとしない夫にエイミーは不満を覚えます。
デイヴィットはデイヴットで、そんな妻の態度を子供っぽいと言い、争い事をさけようとします。
そんなデイヴットの姿はエイミーの目には臆病者で逃げているようにしか映りません。
序盤からこの夫婦の間には不穏な空気が漂っています。
撮影時、ダスティン・ホフマンが31歳程度だったことを考えれば、デイヴットとエイミーはある程度の年の差夫婦だとも言えます。
二人のすれ違いには年の差もその一因としてあるように思います。
ある時、エイミーの飼っていた猫が惨殺されます。エイミーは犯人は家の修理を頼んでいる若者たちだと言いますが、デイヴットは彼らを毅然と問いただすことすらできません。
それどころか、逆に彼らに猟に誘われ、その間エイミーを家に独りにしてしまうという愚行を演じています。
デイヴットが猟をしている間にエイミーは複数の男にレイプされます。
家に帰ったデイヴットはそのことに気づかず、またエイミーもその事を言いません。
しかし、それ以降、エイミーはことあるごとに些細なきっかけで悪夢がフラッシュバックするようになります。
そのピークは、教会でのシーン。本来であれば可愛らしいはずの子供達の鳴らす音さえ忌まわしい記憶を呼び起こしていきます。
耐えきれなくなったエイミーはデイヴットとともに教会を出ます。
その途中に精神薄弱者のヘンリーに車でぶつかってしまったデイヴットは彼を自宅に連れていきますが、ヘンリーを追う町のならず者たちもデイヴットの家の前に集まります。
彼らからの嫌がらせに耐え続けたデイヴットですが、彼らの仲介に入った少佐が揉み合いの中で撃たれて死亡してしまったことをきっかけに、デイヴットは暴力を使い、彼らへの復讐を実行に移していきます。
『わらの犬症候群』
『わらの犬』のように平凡な人物が被害者となり、凄惨な暴力で加害者に復讐するというプロットはのちに『わらの犬症候群』と呼ばれるほど後続の映画に大きな影響を与え、被害者が加害者に過激な暴力で報復する映画が多く作られました。
その中でもレイプとエロの要素を最大限フィーチャーしたのが1978年に公開された『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ(旧題「悪魔のえじき」)』。
田舎町を訪れた若い小説家が町の複数の男にレイプされ、男たちに次々と復讐をしていくというストーリーです。
警察すら上手く機能できていないような田舎特有の閉塞感と、そこで暮らす人同士の独特な人間関係は『わらの犬』にも通じるものがあります。
『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ』は復讐のカタルシスを最大限に強調した作りですが、『わらの犬』では暴力の苦い後味まで描いています。
『わらの犬』が描く暴力の本質
前述したように「血まみれのサム」と呼ばれるほど暴力描写の強い作風のペキンパーですが、その本質は決して暴力賛美ではなく、抗いがたい暴力の誘惑とその結果の虚しさを描いているのだと思います。
デイヴットのアイデンティティの一つは非暴力でした。
エイミーに何を言われようと非暴力を貫く、それがデイヴットをデイヴットたらしめているものの一つです。
しかし、デイヴットはずっと拒み続けていた暴力の誘惑についに負けてしまいます。
ここから映画はそれまでと比べようもないほど『動的』に変化していきます。
あらゆる手を使い、家を襲うならず者たちを傷つけ、殺していく。
『全員始末した』
そう言うデイヴットは暴力の高揚の中で自分も紛れもない『男』の一人であることを証明したかのようです。
しかし、ならず者たちを始末し終えたデイヴットの顔はまるで死人のように青白くなっています。
暴力という『麻薬』の効果が切れたデイヴットがみせる、寂寥感溢れる表情。
どんな激情も、結局は一過性のものだと思い知らされます。
ラストシーン、ヘンリーを車で送り届けるデイヴット。ヘンリーはふと『帰り道がわからない』とつぶやきます。
デイヴットはそんなヘンリーに『僕もだ』と応えます。
このセリフはダスティン・ホフマンのアドリブだそうですが、一度暴力という麻薬を味わったデイヴットが以前の平和主義者のデイヴットに戻れないことを示唆しています。
いうまでもなく、デイヴットは自らのアイデンティティを喪失しています。
暴力の果てに何があるのか。
『わらの犬』にはただのバイオレンス映画とは一線を画す、苦味が込められています。