【考察】ファイトクラブと時計じかけのオレンジが描く「暴力」とは

1999年に公開された、デヴィッド・フィンチャー監督のカルト作『ファイトクラブ』。

その殴り合いという手段によって『男らしさ』を求める動きがやがて破滅的な展開へ進んで行くストーリーは、同じく暴力と衝動が無軌道な若者の原動力として描かれたスタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』と比較され、『90年代の時計仕掛けのオレンジ』と呼ばれるほどでもありました。

今回はその評価の意味を考察。

『時計じかけのオレンジ』、『ファイト・クラブ』の両者を比較し、『暴力』について考えてみたいと思います。

余談ですが、『時計じかけのオレンジ』と『ファイト・クラブ』、両者ともカルト映画として、絶大な指示を受けているところも共通していますね。

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時計じかけのオレンジの『暴力』

『時計じかけのオレンジ』で主人公のアレックスはそもそも暴力的な存在として描かれます。

ホームレスを半殺しにしたり、女性を乱暴したりと、その衝動の吐き出し口として暴力があるのです。

その意味は『快感』。

それは思春期特有の感情とも言えるでしょう。その意味では暴走族とかと似ているかもしれません。

ただ、そのあまりに狂った果実のような暴力行為・犯罪行為のために、アレックスは逮捕され、そしてルドフィコ療法により、自制心や理性、倫理ではなく『物理的に』暴力を抑止された存在となってしまうのです。

それは劇中でも抗議活動の様子が流されたように、ルドフィコ療法はアレックスの暴力をまた暴力で押さえつけるという、非人道的な行為でもありました。いうなれば国家による暴力です。

『時計じかけのオレンジ』では暴力を人間の自然な側面の一つとして捉え、それを一方的な「善」から抑え込むことを強烈に皮肉っています。

ファイト・クラブの『暴力』

対して『ファイトクラブ』の主人公である『僕』はアレックスとは対称的な人物です。

高収入の仕事に就き、家にはイケアの家具とブランド品、暴力や男らしさとは無縁の、いわゆる『勝ち組サラリーマン』のような人生。

彼の秘められた別の人格がブラッド・ピット演じる『タイラー・ダーデン』。

必要最低限のものしか持たず、金持ちが捨てた脂肪で石鹸を製造販売し生計を立てている。

夜毎に殴り合うことで『生きている』実感を得る。

そして、その行為は『世間的な肩書き』が全く意味をなさない会員制クラブ【ファイト・クラブ】へ発展していきます。

しかし、タイラー・ダーデンの存在は現実世界においては『虚構』。現実にはタイラーは存在せず、ただ『僕』のなかにあったマッチョイズムへの憧れの手段としての暴力が暴走し、資本主義へのテロ行為『プロジェクト・メイヘム』へと発展してゆきます。

『僕』は自分自身を撃ち抜くことで、タイラー・ダーデンを殺し、一命をとり止めますが、プロジェクト・メイヘムの流れは止まらず、ただ資本主義の象徴とされている高層ビルが崩壊していく様を見つめるしかないラストシーンで幕を下ろします。

ファイト・クラブにおける暴力は『救済』に近いと思います。それは時計じかけのオレンジが見せた『快感』とは対極の位置にあるものです。自分たちの魂の救済手段としての暴力。

それぞれの時代を貫いた映画

70年代、90年代、それぞれの時代を「暴力」という手段をモチーフに切り抜いて見せたこの映画たち。

『時計じかけのオレンジ』はその暴力描写によって多くの国で公開が禁止されました。
この映画はその内容同様、多くの犯罪を誘発したことでも知られています。

『ファイトクラブ』は現実に世界で各地に実際にファイト・クラブが結成されました。

映画が現実世界に悲劇をもたらしてしまうことは非常に残念なことですが、これらの映画がいかにそれぞれの時代を貫いたかの証明ではないでしょうか。

『時計じかけのオレンジ』

『時計じかけのオレンジ』は原作者のアンソニー・バージェスが兵役でジブラルタルに駐在中、ロンドンに残した妻が4人の若い米兵に襲われ、金品を強奪された悲劇をもとに、少年犯罪をテーマにして書き上げた作品です。

原作が発表された時代はベトナム戦争の最中、それまでのアメリカの理想が初めて挫折に直面した時代。

反戦運動と厭世的な思想は愛と平和を叫ぶヒッピー・カルチャーや、声高に反体制を叫ぶパンクなどのカウンターカルチャーを生み出しました。
映画の世界においても、若者たちの挫折を描く、アメリカン・ニューシネマの隆盛がありました。

ベトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、国民の自国への信頼感は音を立てて崩れた。以来、懐疑的になった国民は、アメリカの内包していた暗い矛盾点(若者の無気力化・無軌道化、人種差別、ドラッグ、エスカレートしていく暴力性など)にも目を向けることになる。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E
アメリカン・ニューシネマ – Wikipedia

時計じかけのオレンジはそんな当時のアメリカをアメリカン・ニューシネマとは違った意味で反映した映画だと考えます。

『ファイトクラブ』

『ファイトクラブ』の中で描かれるのは肥大した資本主義と、その中で飼いならされた、あるいはその恩恵にあずかれない人間たちのマグマにも似たフラストレーションの爆発。

劇中のタイラー・ダーデンの言葉を借りると

「職場と言えばガソリン・スタンドかレストラン、しがないサラリーマン
宣伝文句に煽られて要りもしない車や服を買わされてる

歴史のはざまで生きる目標が何もない
世界大戦もなくもなく、大恐慌もない
俺たちの戦争は魂の戦い
毎日の生活が大恐慌だ

テレビはいう”君も明日は億万長者かスーパースター”

大嘘だ

その現実を知って俺たちはムカついてる」

ということでしょうか。

暴力の本質とは

描かれる暴力の意味は真逆ながらも、それでも今日においてこの2つの映画はなお人々を魅了し続けます。

そもそも暴力の本質とは何でしょうか。一つの答えはミヒャエル・ハネケ監督の映画にあります。

『ファニー・ゲーム』に見る暴力の本質

わけもなく現れた男たちによって一家が皆殺しになり、暴力描写がただただ「痛く」て不快な暴力描写が続く『ファニー・ゲーム』。

カンヌ国際映画祭ではあまりの凄惨さに上映中に席を立つ観客がいたり、ロンドンではビデオの発禁運動まで起こったという曰く付きの作品です。

ただ、監督のミヒャエル・ハネケはこの映画を作った理由としてこう発言しています。

「観客を憤慨させるために作った」と。

確かにこの映画の暴力描写は不快。ただ本来の暴力は不快なのではないか、暴力が「アクションシーン」としてエンターテインメントになってしまっているのはおかしいのではないかとミヒャエル・ハネケは『ファニー・ゲーム』を通して問いかけます。

メッセージとしての暴力

対して、『ファイトクラブ』『時計じかけのオレンジ』は手段としての、メッセージとしての暴力なのです。現実から逃避させる甘美な誘惑として、そして抑圧する社会に対抗する手段として暴力は存在します。

『ファイトクラブ』の「僕」、『時計じかけのオレンジ』のアレックスは当時の若者や社会の中の弱者の姿を確かに投影したキャラクターなのでしょう。

だからこそ、この2つの作品は今なお観るものを惹きつけてやみません。

このそれぞれの映画にはエンターテインメントではない『暴力』があります。

その裏に隠されたのは今の時代も変わらない、私達の叫びではないでしょうか。

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