【ネタバレ レビュー】「さらば青春の光」はモッズ・スタイルのバイブル!

『さらば青春の光』は1979年に公開されたイギリスの青春映画。

1973年のザ・フーによる同タイトルのロックオペラを原作とした作品です。

60年代前半のイギリスを舞台にモッズ・カルチャーに傾倒する若者の無軌道で刹那的な生き方を描いています。

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『さらば青春の光』のスタッフ・キャスト

監督
フランク・ロッダム

脚本
デイヴ・ハンフリーズ
フランク・ロッダム
マーティン・スティールマン
ピート・タウンゼント

音楽
ザ・フー

製作
ロイ・ベアード
ビル・カーヴィッシュリー

出演者
フィル・ダニエルズ
レズリー・アッシュ
トーヤ・ウィルコックス
フィリップ・デイヴィス
マーク・ウィンゲット
スティング
レイ・ウィンストン

『さらば青春の光』のあらすじ

1964年ロンドン、モッズの若き青年ジミー・クーパー(フィル・ダニエルズ)の生活をたどる。ジミーは両親と広告会社の郵便室係という退屈な仕事に幻滅し、10代の苦悩のはけ口として、モッズ仲間のデイブ(マーク・ウィンゲット)、チャーキー(フィリップ・デイヴィス)、スパイダー(ギャリー・シェイル)らとともに、アンフェタミンやパーティーやスクーター、敵対するロッカーズたちとのケンカに明け暮れていた。モッズのライバル組織の一つであるロッカーズには、実はジミーの子供時代の友人 ケヴィン(レイ・ウィンストン)も入っていた。スパイダーがロッカーズ達の襲撃に遭い、その報復として矛先が向けられたのは、ケヴィンであった。襲撃に参加していたジミーは、その犠牲者がケヴィンであることに気付くと、助けることなくスクーターでその場から走り去ってしまった。

銀行休業日の週末、モッズとロッカーズとの激しい対立は、彼らが海沿いの町ブライトンへ降りるにつれ、表面化した。一連の対立は勢いを増し、警察も出動する事態に。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%B0%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%85%89_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
さらば青春の光 (映画) – Wikipedia

感想・レビュー

思ったより古い映画でした。1979年か。。劇中の時代設定は1964年だからさらに古いですね。

主人公はイギリスのモッズと呼ばれる若者のジミー。

モッズ・カルチャー

モッズとはマーロン・ブランドの『乱暴者』に代表されるような、革ジャン(ライダース)にリーゼントのロッカーズスタイルではなく、短く下ろした髪とミリタリーコート(M-51)や三つボタンのスーツなどをファッションとして志向するカルチャーですね。

ロッカーズもモッズも不良カルチャーであることには共通していますが。

特にのコートは今ではモッズ・コートと呼ばれ、モッズ・ファッションはファッションの一つのジャンルとして確立されてもいます。

しかし、そもそも『モッズとは何か?』という問いに答えられる人はそういないでしょう。

『さらば青春の光』

本作『さらば青春の光』はそんなモッズというカルチャー、生き方に焦点を当てています。「モッズのバイブル的な映画」と紹介されるのも納得です。

そして、モッズのカルチャーにどっぷり浸かっているジミー、ロッカーズとの対立、そして仲間たちとの決別が描かれています。

多分思春期真っ只中にこの作品を観ていたら確実に影響を受けていただろうなと思いますね。

ジミーは薬物を常用し、ザ・フーなどのロックバンドとモッズに夢中な10代。

家族とは折り合いが悪く、仲間の所に集まっては共に窃盗をしたり、ロッカーズとのケンカに明け暮れるなど無軌道で刹那的な生き方をしています。

『時計じかけのオレンジ』との関係

個人的にはこのジミーの姿はどこか『時計仕掛けのオレンジ』のアレックスと共通します。刹那的でアンモラルな生き方やライフスタイルはもちろんのこと、仲間の人数が多いほど余計にその傾向が強くなり、行動がエスカレートするなど。。

実際に『時計じかけのオレンジ』の原作者のアンソニー・バージェスは当時流行していたモッズの若者たちをモデルにこの作品を書き上げたそうです。

モラトリアム期の夢

ジミーの刹那的な生き方と、モッズとロッカーズの対立はブライトンで最高潮となり、ついには警察まで出動、劇中でジミーの憧れの存在として描かれるエース(演じているのはなんとポリスのスティング!)とともにジミーまで逮捕されます。ジミーはそのとき憧れていた女の子のステフと一緒でしたが、なぜかジミーだけ逮捕。ステフはジミーの仲間とともに姿を消してしまいます。

刹那的な生き方が許されず、体制側によって潰されてしまう。

アメリカン・ニューシネマの先駆けとなった『イージー・ライダー』同様、『さらば青春の光』にもまたアメリカン・ニューシネマの匂いが感じられます。

当たり前と言えば当たり前なんですが、それは僕が大人になった今だからこそそう感じるのかもしれません。

幼い頃は誰でも自由に夢を見ることができます。

それはまだ自分が何者でもある必要がなく、かつその時間(モラトリアム)が長く存在するからでしょう。

しかし、その夢を狭めるのも、また実現させてくれるのもまた時間なのです。

その過ぎて行く時間の中で、描いた夢は妥協点を見つけ、いつしか現実的な落とし所に姿を変えていることがほとんどではないでしょうか。

特にジミーは社会人になってもモラトリアム期の夢を捨てられていないのです。

ブライトンの乱闘騒ぎについて、仲間たちは『あれは遊びだった』と自分達の日常生活とはある意味割りきった返答をします。

しかし、ジミーにとっては(それが事件とはいえ)自分達の存在が現実社会を動かした記念すべき日でした。ジミー自身も『人生最高の1日』と発言しています。

ジミーは家族にも相手にされず、一人孤独を噛み締めるようなナイーブさもまた併せ持っています。

恐らくジミーにとっては逮捕後に出廷したことも、「社会に(悪い意味ででも)必要とされた」、大きな出来事だったと思います。

ジミーはモッズのライフスタイルと仲間たちに人一倍純粋な理想を求めていたのではないでしょうか。

それが証明された出来事としてジミーはブライトンの乱闘事件を記憶しているのです。それは単純にジミーの純粋さ・若さから来る思い込みであり、仲間との意識の違いに愕然としたジミーは仲間と袂を分かち、一人ブライトンへ向かいます。

しかし、ブライトンで見たのはジミーの憧れの存在のエースですら、平時は社会の歯車として、定職につき、ベルボーイとして働いている姿でした。

ここでジミーが抱いていた幻想は決定的に崩れ去ります。

その象徴として、ジミーはモッズスタイルにカスタマイズされたスクーターを崖から落とすのです。

『ハロルドとモード』との関連

恐らくこのエンディングのシーンは老女と少年の恋を描いた『ハロルドとモード』に影響を受けていると思います。

『ハロルドとモード』も、モードが亡くなった後、ハロルドは愛車に乗って崖からもろとも落下しようとしますが、ギリギリで車から脱出。車だけ崖から落ちるというエンディングでした。

『さらば青春の光』も正に同じで、崖に向かう途中でジミーはバイクから飛び降り、バイクだけが崖から落ち、大破します。

ハロルドにとって、モードとの恋は青春時代の象徴であり、人生に虚無感を抱いていた時代の一つの終わりだったのではないでしょうか。しばしば『アメリカン・ニューシネマ』の一つととらえられることが多い『ハロルドとモード』ですが、モードなき後の人生を生きていくと決心したのが車から降りたハロルドの姿そのものではないかと思います。

ジミーも、バイクはモッズの象徴。彼にとっての青春との決別をエンディングは表しているのでしょう。

最後に

モッズ・カルチャーという時代を知るのはもちろんのこと、青春映画としても、このほろ苦さは誰の胸にも残っているのではないでしょうか。

『さらば青春の光』、原題はQuadropheniaで四重人格の意味ですが、これは名邦題と言えますね。




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