【ネタバレ解説】「群衆」キャプラが描くポピュリズムの危険性

『群衆』は1941年に公開されたフランク・キャプラ監督のコメディ映画。

主演はゲイリー・クーパーとバーバラ・スタンウィック。

フランク・キャプラのヒューマニズムはそのままに、今作ではポピュリズムの危険性を踏みこんで描いています。

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『群衆』のスタッフ・キャスト

監督
フランク・キャプラ

脚本
ロバート・リスキン

原作
リチャード・コンネル

出演者
ゲイリー・クーパー
バーバラ・スタンウィック

『群衆』のあらすじ

新聞社に勤めるアン・ミッシェル。彼女は新聞社のオーナーがDB・ノートンに変わったことでリストラの対象になってしまった。アンはリストラを免れるために偽の投書を新聞に掲載する。

「ミッシェル様、私は四年前に職を失いました。州のだらしない政策けでなく、社会に絶望しました。その証しとしてイブの24時に市庁舎の屋上から飛び降ります。

ジョン・ドー」

その偽の投書が評判となり、ジョン・ドーに対して職の斡旋はもちろん、結婚したいと申し出る女性も現れる。
アンの勤める新聞社にも自分こそがジョン・ドーだと言い張る貧しい男たちが集まっていた。

その中でアンはロング・ジョンと名乗る一人の男に目をつける。彼は元野球選手で現在は失業中。

当初は職にありつけるとだけ聞いてやってたロング・ジョンも人々の熱狂を前に次第にジョン・ドーとしての使命に目覚めていくが、ジョン・ドーの人気の裏ではある計画が動き出していた。

解説・レビュー

ポピュリズムの危険性

『スミス都へ行く』で民主主義を高らかに歌い上げたフランク・キャプラ。
『スミス都へ行く』では政治のプロではなく、一般市民の中から選ばれた政治家が、その純粋さをもって政界の腐敗を挫くというポピュリズム礼賛の映画でもありました。

対して『群衆』ではそうしたポピュリズムに潜む危険性を描き出しています。
そういった意味でも『群衆』という邦題は実に的を得ています。
原題は『Meet John doe』(ジョン・ドーに会え)というもの。
ちなみにジョン・ドーというのは日本で言うところの「名無しの権兵衛」みたいな、仮の名前としてよく使われるものです。

大衆の中からヒーローが現れるというプロットは『スミス都へいく』と同じですが、『群衆』ではそうして現れたジョン・ドーに多くの大衆の共感が集まり、それはやがてジョン・ドー自身をも変えて行きます。

当初は新聞社に勤めるアン・ミッシェルが自らのクビを免れたい一心ででっち上げた架空の人物がジョン・ドーでした。

「ミッシェル様、私は四年前に職を失いました。州のだらしない政策けでなく、社会に絶望しました。その証しとしてイブの24時に市庁舎の屋上から飛び降ります」

その偽の投書が評判となり、ジョン・ドーに対して職の斡旋はもちろん、結婚したいと申し出る女性も現れました。
そしてアンの勤める新聞社にも自分こそがジョン・ドーだと言い張る貧しい男たちが集まっていました。

その中でアンはロング・ジョンと名乗る一人の男に目をつけます。
彼は元野球選手で現在は失業中。
夢をもってアメリカで暮らしていが、社会に挫折し、失望のなか自殺するというアンが重い描くジョン・ドーのストーリーにマッチしていました。

『群衆』公開時の時代背景

ここで『群衆』公開時の時代背景にも少し述べておきます。
1929年に発生した大恐慌は当時のアメリカにおいてもまだ完全に立ち直れないほどのダメージを与えていました。

一般にはアメリカは大恐慌からフランクリン・ルーズヴェルトのニューディール政策で立ち直ったとされていますが、今日ではそれには疑問符が持たれ、ニューディールではなく、参戦による戦争特需により不況を脱することができたのではないかと言われています。

『群衆』が公開されたのは1941年。日本の真珠湾攻撃によってアメリカが第二次世界大戦に参戦するわずか三ヶ月前です。(GDPで見れば1939年には大恐慌前のGDPまで回復していますが、GDPと庶民生活が必ずしも連動しないのはここ数年の日本を見てもよくわかるかと思います。)


ジョン・ドーとは

さて、突如としてメディアに登場したジョン・ドーに人々は熱狂します。
ジョン・ドーこそ自分達の代弁者であると。
ジョン・ドーは自らを平凡な人だと言い、そしてそんな平凡な人たちの中にこそ世界を変える力を持つ人々がいる、その人こそジョン・ドーであると訴えます。
名もない市民こそ本当の主役なのだという、フランク・キャプラの姿勢は『スミス都へ行く』から一貫して引き継がれています。

ジョン・ドーは大衆に団結を訴えます。
全国にジョン・ドーを支持する「ジョン・ドー・クラブ」が設立され、当初はジョン・ドーを演じることに消極的だったロング・ジョンも一般市民の団結という奇跡をその目にして、改めてジョン・ドーとしての使命に目覚めていきます。

しかし、アンの雇用主である新聞社のオーナー、ノートンの目的はジョン・ドー・クラブを盛り上げ政党化し、自らがその代表となって国政に参加することでした。
本来の目的を知ったジョン・ドーはその事を大衆に伝えようとしますが、先にノートンによってジョン・ドーが本当の庶民の代表ではなく、メディアによって作られた偽の英雄であることを暴露します。

大衆の危うさ

真実を知った大衆はノートンが派遣した妨害員のヤジに圧されるようにジョン・ドーへ同じようにヤジを飛ばし、物をぶつけます。

『スミス都へいく』であれほどポピュリズムを無邪気に称賛したキャプラは、ここでポピュリズムの危険性を描きました。

それは扇動されやすく、容易く周囲の流れに同調してしまう大衆の危うさ。
それは同時代にドイツでナチスの台頭をもたらしました。
チャップリンが『独裁者』でナチス・ドイツとファシズムを批判したように、同じ事をキャプラは今作で行いたかったのではないでしょうか。

世間から見放され、一人になったジョン・ドーは本当にクリスマスの日に市庁舎から飛び降り自殺をしようとします。
ジョン・ドーは自分が死ぬことでもう一度運動を盛り上がらせようとしていました。

『群衆』のエンディング

キャプラは『群衆』のラストに頭を悩ませ、当初は本当にジョン・ドーが自殺をするというエンディングであったそうです。

最終的なエンディングでは死のうとするジョンのもとにアンが駆け寄り、ジョン・ドーに「あきらめないで」と懇願します。アンが指差す先には少数ながらもジョン・ドーに共鳴するクラブのメンバーが残っていました。
ジョンは自殺を思いとどまり、アンを抱いて市庁舎を後にするエンディングです。

『JOKER』に見る『群衆』の現在

ある意味では希望のあるエンディングで終わった作品ですが、これをもし『悪』を主張する主人公に置き換えれば、そのまま2019年の映画『JOKER』になります。

『JOKER』ではホアキン・フェニックス演じるアーサーが恵まれず貧しい、社会の犠牲者として描かれますが、ロング・ジョンもそんな一人。

社会に渦巻く不満に対して大衆が立ち上がるシーンはどちらの映画も非常に似通っています。

『JOKER』ではアーサーの犯行に対して、大衆は「支配階級への反乱」という見方で彼を擁護していきます。
アーサーの狂気は正に社会の中で芽生え、そして大衆がその狂気をジョーカーへと育て上げたのです。
その意味では『群衆』が描くポピュリズムの危険性は公開から80年近く経った今でも私たちの社会に存在しています。

また、熱烈な愛国者であったキャプラ自身、アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、多くのプロパガンダ映画を作り、自ら大衆を扇動していったのはいかにも皮肉だと言わざるを得ません。



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