【考察】「JOKER」と「ダークナイト」におけるジョーカーとは何か

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ジョーカー

ジョーカー。それは元々道化師を差す言葉でした。

可笑しな振る舞いで人々を楽しませる存在。

しかし、バットマンの世界においてそれはいつしか喉元に混沌のナイフを突き詰める狂気の存在へと進化していきました。

『ダークナイト』におけるジョーカー


それがスクリーンで決定的になったのは08年の『ダークナイト』。
『ダークナイト』におけるジョーカーは金も支配欲も何も持たず、ただバットマンの対となる悪の存在であり続けることだけがジョーカーの存在意義なのでした。

ジョーカーはバットマンに問いかけます。
『悪があるから善が成り立つのではないか?』

正義が揺らぐ

それはイラク戦争の大義名分が揺らぎ、正義が大きく揺れていた当時のアメリカを風刺する問いでもありました。
圧倒的な悪を作り上げることによって、人々は相対的に自らを善だと位置付け、悪を倒そうとする自らの行為を正当化し、誇りにすら思い、実行する。
しかし、そうやって破壊した悪の中から表れたのは、自国アメリカに対する矛盾や悲劇、無秩序だらけでした。

その現実のなかで大ヒットした『ダークナイト』、その狂気は現実を浸食していった問題作でもありました。

『JOKER』におけるジョーカー

そして、2019年に公開されたのがホアキン・フェニックス主演の『JOKER』。

バットマンのヴィラン・キャラクターであるジョーカーの誕生を全くのオリジナル・ストーリーで描き出しています。
ホアキン・フェニックス演じるアーサー・はコメディアンを目指す中年男。彼の日常は貧困と孤独と嘲笑に溢れ、彼自信も突発性の笑いの発作という病気を抱えていました。
彼の暮らすゴッサム・シティは貧富の差が激しい格差社会であり、アーサーの母親が街の大富豪であるトーマス・ウェインに陳情の手紙を書いても、返事すら届かないような有り様。

『ダークナイト』ではゴッサム・シティ政治腐敗や組織犯罪をアメリカの罪の象徴として描いていましたが、今回の格差社会という設定はよりリアルにアメリカの現実を反映していると言えます。現実においてもアメリカは先進国で最も経済格差の大きい国であり、かつその差は拡大を続けているからです。
『JOKER』のアーサーも貧しい暮らしを余儀なくされています。孤独でゴッサム・シティにとっては空気のような存在でしかないアーサー。



ホアキン・フェニックスは今作の役作りのために24㎏も減量したといいます。

ヒース・レジャーの演技が絶賛された『ダークナイト』のジョーカーですが、ジョーカーがいてこその存在であり、善と悪を相対化した場合の象徴としてのキャラクターでもありました。
ヒース・レジャーのジョーカーが「過去を持たない」キャラクターだったのもジョーカーを象徴としての存在にし、ジョーカーの人間的な側面を排除することに成功しています。

しかし、『JOKER』のジョーカーはあくまでも一人の男のままならぬ人生を起点にしています。
社会の理不尽に憤り、出口の見えない日々で必死にあがく。片方でテレビをつければ庶民の暮らしなど全く経験したことのないような金持ちが庶民をバカにしている。
『JOKER』を観た人の多くがアーサーの中に自分自身を見つけると思います。

「この作品は自分の映画だ」と。

『JOKER』は近年で最も警戒された映画のひとつでしょう。それは直接的には同じくジョーカーを描いた『ダークナイト』が現実世界での暴力や悲劇を誘発した作品だからということが大きいとは思います。
当時のアメリカが掲げていた「正義」の矛盾を『ダークナイト』のジョーカーは華麗に、痛快に突いてみせたわけです。

『JOKER』の危険性

『JOKER』ではアメリカのある映画チェーンでは仮装の禁止やマスクでの映画館への来場が禁止されるという事態になりました。

果たして『JOKER』はもはや『ダークナイト』以上の危うさを潜めていると感じます。

暴力を誘発した映画としては古くは70年代のスタンリー・キューブリック監督作『時計仕掛けのオレンジ』があったでしょうし、90年代にはデヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』が「これは性欲の代わりに暴力を刺激するポルノだ」と評されました。

現代でその位置に存在する映画はこの『JOKER』になるでしょう。

拡大し続ける格差のなかで、「自由」や「平等」という言葉がいかに空虚に響くのか。生きるごとに感じる、綺麗事と現実のどうしようもない断絶。

アーサーの身に降りかかる不幸はその種類、量ともに非現実的ではありますが、だからこそ「自分自身がアーサーだったらジョーカーにならずにいられるだろうか?」という問いを突きつけられるのです。

ゴッサム・シティではジョーカーへの支持が広まりを見せていきます。
彼らは富裕層の象徴ともいえるとトーマス・ウェインの市長立候補にNOを突きつけますが、やがてそれらは混沌を引き起こし、巨大な暴力の渦へと変質していきます。『ファイト・クラブ』で「スペース・モンキーズ」がプロジェクト・メイヘムを引き起こしたように。

『JOKER』ではアーサーが電車で絡んできた三人の男を射殺します。
アーサーは映画の冒頭でも不良達に襲われており、同僚から護身の一つとして銃を渡されていました。
しかし、よりによって小児病棟で 子供達の慰問の仕事をしていたときに 携帯していた拳銃を落としてしまい、「なぜ小児病棟に拳銃を持ち込んだのか」ということで雇用先をクビになったのでした。

失意のあまりピエロメイクのままで電車に乗るアーサー。すると向かいの若い三人組の男が女性に絡んでいるのが目に入ります。
苛立ちながらも傍観を決め込むアーサーですが、そんなときに笑いの発作が出てしまいます。
それをきっかけに男達のからかいの対象はアーサーに切り替わるのです。
やがてからかいは暴行へと変わり、耐えきれなくなったアーサーは一人を射殺。そして続けて残りの二人も射殺します。

3人はウェインの会社で働く会社員でした。ウェインは彼らに対する弔いのコメントを出しますが、大衆の側にははウェインという富裕層側を殺した「ピエロの男」をヒーローとして見る動きもありました。



生き残る道

『JOKER』は映画自体が終始重いトーンに支配されています。
その重さは少なくともエンターテインメント性のある迫力のシーンを持っていた『ダークナイト』の比ではなく、むしろ『羊達の沈黙』や『セブン』のようなサイコスリラーに近いかもしれません。
しかし、アーサーの中の狂気が芽生える時、スクリーンは明るい光に包まれるのです。
現実に、社会に裏切られ続けた男は、もはや狂気の存在としてしか社会に対して生き残る道はなかったのでしょう。

「悪であること」とは何か

『何が善か、何が悪かは主観で決まる』

『JOKER』でジョーカーがクライマックスのシーンで口にするセリフです。
『ダークナイト』のジョーカーは己が絶対的な悪であることを認識していました。
そして、常に善の存在であろうとするバットマン(ブルース・ウェイン)を揺さぶり続けます。

「人間の本質は誰しもが醜いのではないか?」

そこにはバットマンの正義という仮面を剥ぎ取ろうとするジョーカーの目的がありました。
バットマンにとっては自身の正義という信念がすべて。バットマンにとって信念が崩壊することは自分自身を否定することに他なりません。
偽善的な理想を剥ぎ取り、醜い現実こそ真実と認めろ、そうジョーカーはバットマンに迫ります。

『ダークナイト』におけるジョーカーは現実の化身でもあるのです。

ジョーカーはあるゲームを仕掛けました。

囚人達が乗る船と、一般人が乗る船、二つの船にそれぞれ爆弾と相手の船を爆発させるスイッチを設定したのです。時間までに相手の船を爆発させれば自分の船は助かる、時間までにどちらもスイッチを押さなければ、二つの船がどちらも爆発する。
結局はどちらもスイッチを押さず、どちらの船も助かるという結末で、ジョーカーの「人の心根は醜い」という考えが否定された瞬間でもありました。
それは『ダークナイト』において唯一の希望のあるシーンであり、逆に言うと映画的なファンタジーにも見えてしまう場面でもありました。

果たして現実にも2016年にアメリカ・ファーストを打ち出したドナルド・トランプが大統領選において勝利を収めました。
彼の奔放で時に差別的ともされる発言にセレブリティの多くはノーを示し、しかし低所得者層はトランプが発言する「アメリカの本音」に熱狂し彼を支持しました。

『JOKER』のアーサーももし現実にいたのならそんな中の一人だったのかもしれません。
アーサーのような境遇にあって、ウェインのいう理想は綺麗事としてどれ程空しく響いたのでしょう。
トーマス・ウェインの言うとおり、果たしてアーサーのような低所得者層は努力が足りないだけなのか。
現実の格差を知りながら、何の対策も打たないトーマス・ウェインこそ悪ではないのか。

2つの「ジョーカー」の視点

『ダークナイト』のジョーカーは時に甘美な誘惑をささやく、悪魔のような存在です。
すべてを俯瞰で見下ろし、迷路に迷いこんだバットマンを「破滅」というゴールへエスコートしていきます。
言うなれば、それは神に近い視点です。

一方の『JOKER』のジョーカーは社会の中から生まれてきた存在。だから彼は自己証明のためにバットマンなど全く必要としません。
言うなればそれは地の視点

その代わりに彼には「大衆」が必要でした。一人のアーサー・という男の持つ人間としての欲求。彼の承認欲求を満たして、彼を必要とする人間がアーサーの求めていたものでした。
その欲求は私たち自身も少なからず持っているものです。



『ダークナイト』と『JOKER』

『ダークナイト』におけるジョーカーはバットマンのダークサイドです。バットマンを挑発し、その仮面を剥ごうとします。
ジョーカーは清廉かつ純粋な正義の使者であったハービー・デントを闇に落とし、バットマンに人の心根は醜いことを認めさせようとさえします。

一方で『JOKER』のジョーカーは我々のダークサイドなのです。
アーサーの支持者はみなピエロの仮面を被っています。それは個人としての責任を捨て、匿名性の下でモラルを無視する現実社会の一部の人々を彷彿とさせます。
仮面の下にはそれぞれの名前をもって、家庭や仕事など、それぞれの責任を背負っているはずです。
しかし、仮面をつけた瞬間、それは名前を持たない別の誰かに成り変われるのです。

ダークサイドを暴き出す鏡

『ダークナイト』は狂気のナイフで正義の矛盾を暴き出しました。

『JOKER』はそのナイフを持っているのは私たちなのではないかと突きつけます。

この2つの映画のジョーカーは現実社会のダークサイドを暴き出す鏡のような存在なのです。

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