陽菜は帆高に対し、「もし当たっていたらどうするの?最低!」と声を荒げて詰め寄ります。
銃をその場に捨て、陽菜に謝る帆高。
これが二人のきちんとした出会いのシーンなのですが、ここで帆高が自発的に銃を捨てているのは、「もうそんなものには頼らない」という意思の表れ。
銃は「殺人」という方法を暗喩しています。
いくら人を守るためとはいえ、超えてはならないものがあるということを帆高は理解したと解釈するシーンなのですが、クライマックスで再び銃を手に取り、そしてそれをあろうことか恩人であり仲間である須賀に向ける。
帆高の「陽菜を救う覚悟」の程を端的に表したかったのでしょうが、その覚悟が銃ではダメでしょう。
個人的にはこのシーンのために逆に帆高の未熟さ、軽薄さ、思慮の浅さ、そういったものが強く印象づけられてしまいました。
『君の名は。』とほとんど同じ構成
さて、天気の子の映画的な構成は『君の名は。』とほとんど同じでした。
モノローグから入り、タイトルの現れ方、物語が安定してきてから挿入歌が流れるところなど、本当に君の名はの構成はそのままでストーリーだけ別にしたようなイメージ。
これを守りに入ったと見るべきか、作家の「持ち味」と見るべきなのか。
劇中には『君の名は。』のキャラクターも登場します。
(瀧、三葉、四葉、てっしー、さやちん)
ファンサービスだとは思うのですが、『君の名は。』があれだけのヒットとなった分、『君の名は。』の枠組みから抜け出せないのだとしたら悲しいことです。
『天気の子』ネタバレ
帆高も廃ビルの屋上の鳥居をくぐり、空へ登り陽菜を連れ戻します。
ただ、その代償として、雨は止むことはなくなりました。
ここでもと同じく作品の舞台は数年後へ。
3年後、雨は止まないまま、東京は大部分が水没。
地元の高校を卒業し、東京へやってきた帆高は須賀を訪ねます。須賀の会社は成長しており、須賀の人生も順風なようでした。須賀の後押しもあり帆高は陽菜に会いに行きます。
陽菜の家に続く道を歩いていると、その途中に陽菜の姿が。
彼女は今も晴れを祈り続けていました。
『君の名は。』と比較すると、どうしてもエモーショナルな部分に欠けてしまうのは否めませんが、現実世界をそのままアニメーションに反映させているのは、やはり新海誠監督ならではだなと感じます。
賛否分かれる作品だと思いますが、それも含めてこの作品の魅力なのだと感じます。