【ネタバレ レビュー】勝手にしやがれ

「勝手にしやがれ」は1959年に公開されたジャン=リュック・ゴダール監督の長編デビュー作。

主演は当時新人だったジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作品として知られています。

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「勝手にしやがれ」のスタッフ・キャスト

監督
ジャン=リュック・ゴダール

脚本
ジャン=リュック・ゴダール

原案
フランソワ・トリュフォー

製作
ジョルジュ・ド・ボールガール

出演者
ジャン=ポール・ベルモンド
ジーン・セバーグ
ダニエル・ブーランジェ
ジャン=ピエール・メルヴィル

「勝手にしやがれ」のあらすじ

感想・レビュー

ゴダールの長編デビュー作

ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作品です。

映画に限らず、初期、それもとりわけデビュー作となると、自分が影響を受けた作品に対しての憧れや理想が色濃く反映されてしまうもの。

ゴダールにとってのそれは、アメリカの犯罪映画でした。

それを証明するように、『勝手にしやがれ』でジャン=ポール・ベルモンドが演じる主人公のミシェルは、「カサブランカ」のハンフリー・ボガートに憧れているという設定ですし、ジーン・セバーグ演じるミシェルの恋人のパトリシアはアメリカ人という設定です。

まぁ、後にゴダールは商業映画との決別を宣言し、ハリウッドを痛烈に批判することになるのですが。。

ヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作品

デビュー作ということでカットの編集の粗さや予算のなさによるロケ主体の撮影のため終始画面が揺れ続けているなどの点はあるものの、当時はそれが斬新だと芸術的に受け入れられ、ヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作品として認知されるようになりました。

しかし、そのような偶然的な要素だけでなく、同時にゴダール的な作為も随所に感じられます。

一つはカメラを通して観客である私たちに語りかけるようなシーン。

この映画内映画の演出はゴダールの特徴の一つでもあり、のちの作品『気狂いピエロ』でも同じくジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが私たちにナレーションするシーンがあります。

この表現は今に至るまで引用され続け、もはや表現技法の一つとして定着しています。

最近の例でいうと、例えばアメコミ映画の『デッド・プール』。

また、商業的に当初のフィルムをより短くカットするようにスタジオから要請されたことから「ジャンプ・カット」の編集技術が生まれました。

ビジネス的な理由が新しい表現を獲得したという意味では、ジャパニメーションとも呼ばれる日本のアニメーションもその一例かと思います。

ゴダールを語ることは不可能

ただ、やはりこの映画の本当の凄さがわかるのは1959年を中心として、その時代をリアルタイムで体験した人達だけでしょう。

例えば1999年に公開された『マトリックス』。
僕は公開当時に劇場で観て、バレット・タイムとワイヤーアクションに物凄く衝撃を受けましたが、今『マトリックス』を初めて観ても、当時ほどの衝撃は感じ得ないかもしれません。

映画技法にはどうしても時代の制約がついてきます。

そこで、まず前提として「ゴダールを語ることは不可能」という観点に立って、レビューを進めていきます。

詩のようにちりばめられた言葉

逆に今観て新鮮なのはセリフや会話の一つ一つ。

「密告者は密告し、強盗は強盗し、人殺しは人を殺し、恋人は恋をする。」

「あなたに愛してほしい でも同時にもう愛してほしくないの 縛られたくなくて」

まるで詩のようにちりばめられた言葉の数々。

「海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ。」

冒頭からはジャン=ポール・ベルモンドはこのように吐き捨てます。

一体それは誰に向けた言葉なのか。

ゴダールはここで本作は純粋な映画、つまり映画のための映画であることをジャン=ポール・ベルモンドの口を借りて宣言しているのでしょうか。

この映画に映画以外のものを期待しているのなら勝手にしやがれ、と。

物語自体はありふれた犯罪もの。

しかし、ミシェルとパトリシアの会話は物語を進めるために存在しているのではなく、ただ上手く噛み合わないまま何の進展もなく続いていきます。

そこから、二人の違いが見えてきます。

ミシェルとパトリシア

そもそも記者志望でアメリカのニューヨークから留学してきた女学生。彼女の興味は文学。そのために演じる小説家の取材には情熱をもって臨みます。

彼女はミシェルの刹那的な生き方に最後まで同調することはありませんでした。そもそもパリにいながら、パリに馴染もうともしていないところなどは言及されるべきポイントでしょう。

比べてミシェルはその来歴すら不明。パリに執着もせず、気のままにパトリシアに「ローマに行こう」と誘ってみる。明日すら曖昧な刹那的な男。

ゴダールは二人の違いを言語に分かりやすく象徴させています。

フランス語でまくし立てるミシェルに対して、フランス語が不得意なパトリシア。

そのすれ違いはラストシーンで最も効果的に発揮されるのです。



気狂いピエロ

あくまで私見ですが、『勝手にしやがれ』を進化させた作品が『気狂いピエロ』だと思います。

こちらの作品も主演はジャン=ポール・ベルモンド、ヒロインはアンナ・カリーナが務めています。

殺人からの逃避行という共通する序盤。

物語から暫し離れる中盤。

女性の裏切りという終盤。

違いは『勝手にしやがれ』がジャン=ポール・ベルモンドの魅力に溢れた映画だとしたら、『気狂いピエロ』はヒロインのアンナ・カリーナの魅力が全面に出た映画だということでしょうか。

ベルモンドの魅力

『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドはもう間違いなくかっこいい。

もちろん、ジーン・セバーグなくして、『勝手にしやがれ』もまた存在し得ないのはその通りですが、彼女の衣装もまたボーダーの可愛らしいファッションではあるものの、カラー作品である『気狂いピエロ』のファッションと比較すると、『勝手にしやがれ』がモノクロである分、その魅力がどうしても伝わりきれていないように感じます。

一方でジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルの魅力はどうでしょうか。

意地悪で刹那的でありつつも、不器用で繊細で。

冷徹な悪党になりきれずに、惚れた女のために今の場所から動けずにいる。

アントニオの「早く逃げろ」との言葉に対して「俺は残る。もうたくさんだ。俺は疲れた。」は今作の印象的な名セリフだと思います。

ちなみに今作の原題は「A bout de souffle」で意味は「息切れ」。ミシェルの刹那的な生き方を象徴しています。

ジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えを数多く務めた故・山田康雄氏はこんな言葉を遺しています。

「もしルパン三世を実写化するならば、ルパンを演じられるのはベルモンドしかいない。」

ルパン三世の声優を亡くなるまで23年間ずっと続けてきた山田康雄氏のこの言葉だけでも、ジャン=ポール・ベルモンドの佇まいが感じられます。



ラストシーンの解釈

警官に撃たれ、走って逃げようとするも、息切れし、倒れこむミシェル。

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