駆け寄ったパトリシアに、かすれ声で『お前は最低だ』と呟き、亡くなります。
その言葉が聞き取れずにパトリシアが意味を警官に訪ねると、警官は「お前は最低だと彼が言っていた」と伝えます。
フランス語でその意味がわからないパトリシアは「最低ってなに?」とカメラに向かって訪ね、ミシェルの仕草を真似て見せます。
上記の流れが一般的な『勝手にしやがれ』のラストシーンの流れですが、ミシェルの台詞について、正しく原語を訳すと「本当に最低だ」と何が最低なのか具体的な示してはいないという指摘もあります。
その場合、エンディングの印象は大きく変わります。
本当に最低だったもの、それはミシェルの人生そのものに向けての言葉だったと解釈することも可能です。
なぜならミシェルはパトリシアによる密告はあったにせよ、逃げようと思えば逃げることができたわけですから。
それを断って「俺は残る。もうたくさんだ。俺は疲れた。」と言っているわけです。
ゴダールはミシェルは常に死のことを考えている青年と設定したそうです。
ミシェルが交通事故に遭遇するのはそれの象徴なのだとか。
『勝手にしやがれ』
前述のとおり、ゴダールを『勝手にしやがれ』を語ることはもはや不可能でしょう。
しかし、それこそがゴダールを語ることの本質かもしれません。
コラージュのような映像とセリフ。
コラージュにおいては最終的なメッセージは作り手ではなく、受け手の感性にゆだねられます。受け手が要素を再構築し、そこにちりばめられた主題を想像してゆくのです。
『勝手にしやがれ』はその鏑矢とも言える作品です。