エレファントマンとは?ジョゼフ・メリックの生きた時代

今回はデヴィッド・リンチ監督の映画『エレファント・マン』でも取り上げられた、ジョゼフ・メリックと彼の生きた時代に目を向けてみようと思います。

平等主義や人権主義は近年も盛り上がりを見せていますが、その功罪をエレファントマンと呼ばれた男、ジョゼフ・メリックの人生から考察することもできるかと思います。

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エレファントマンの概要

『エレファントマン』。そう呼ばれた実在の人物、ジョゼフ・メリックとその人生は今なお多くの人を惹き付けてやみません。

エレファントマンとは身におびただしい奇形を発症し、その風貌から『象男(エレファントマン)』と呼ばれたジョゼフ・メリックを指します。

エレファント・マンという名前の由来は、母親が彼を妊娠していた頃に象に踏まれかけた夢を見たことから、ジョゼフはあんな容姿になったのだ、という当時ジョゼフが所属していた見世物小屋の宣伝からです。

その数奇に満ちた人生と外見により、彼は現在においても著名な人物で、また彼は医学的な研究対象ともなっています。

かつては救貧院に入所するほど困窮を極め、その後見世物小屋で働くも失業、その後「タイムズ」紙に掲載されたことから一躍有名になる、その人生はあまりに劇的です。

彼の物語は多くの人の心を惹き付け、 映画や演劇など、様々な作品にエレファントマンは取り上げられています。

これは彼が苦難の人生の中でも純粋な気持ちを保ち続けたことが大きいのでしょう。

後にマイケル・ジャクソンは『他人事だと思えず、涙が出てくる』と話しています。絶えず見世物小屋で人々の好奇の目にさらされたメリックと、幼い頃からショービジネスの世界で生きてきた自分の境遇を重ね合わせたのでしょう。



ジョゼフ・メリックとは

誕生~困難の日々

ジョゼフ・メリックは1862年8月5日にイギリスのレスター市内のリー・ストリートで生まれました。
生後21か月の時からその体は徐々に変形を始め、4歳の時には転倒して左の腰を痛め、関節炎の発症により歩行も困難になるなど、苦難の人生が始まっていきました。

12歳の時に学校を卒業し、葉巻を製造するメッサーズ・フリーマンズ葉巻製造会社に就職。
しかし2年後には右腕の変形が進んで離職せざるを得なくなり、次に父の支援を受けて行商人の免許を取得、行商人として働き始めるも、やはり彼の病気の進行によって営業は困難になり、ついにはメリックが街頭に立つと周囲にパニックが発生するほどにまでなり行商人免許も剥奪されることになりました。

救貧院~見世物の世界へ

働くこともままならないくなったメリックは17歳でレスター・ユニオン救貧院に入りました。しかし、ここでの生活環境は過酷だったようで、一度は救貧院を出ていますが、職を見つけることができずに再度に戻っています。

メリックは見世物の世界へ入るまで、4年間を救貧院で過ごしました。

1884年、メリックが22歳の時に興行師・コメディアンのサム・トーへ自らの身の上をしたためた手紙を送ります。

サム・トーはエリックを迎え入れ、見世物小屋の一員として巡業生活に入ります。

母親が彼を妊娠していた頃に象に踏まれかけた夢を見たことから、半人半象の容姿になったのだという口上とともにジョゼフ・メリックは「エレファントマン」として観客に紹介されるようになりました。

フレデリック・トレヴェスとの出会い

メリックはロンドン公演の巡業中に医師のフレデリック・トレヴェスと出会います。

トレヴェスはこの時メリックを診察し、ロンドン病理学会でメリックの症例を報告しています。

この時にはメリックの症状は「皮膚弛緩症および神経腫性象皮病」と診断されています。

一方のメリックは所属していた見世物小屋の閉鎖により再び苦難の時が始まりました。

映画の『エレファント・マン』では興行主から冷たい仕打ちを受けたように描かれていますが、実際には寛大な扱いを受けていたといいます。

メリックはトレヴェスと面会していた時に渡された名刺を頼りに、トレヴェスに保護を要請し、ロンドン病院に収容されました。



ロンドン病院での日々

しかし、慢性患者であるメリックをロンドン病院もいつまでも置いてはおけずに、ロンドン病院理事長フランシス・カー・ゴムは「タイムズ」紙にメリックへの寄付を求める投稿を行っています。

その結果メリックのロンドン病院での収容には延長措置が取られ、ロンドン病院の地下にはメリックの部屋が用意されることになりました。

最初は不明瞭な発生から白痴かと思われていたメリックでしたが、トレヴェスはメリックが高い知能と純粋さを持ち合わせた青年であることを理解していきます。

またメリックも心を開き始め、トレヴェスを友人として迎え入れていきます。

メリックはここで模型作成や読書をして暮らしており、彼が作ったマインツ大聖堂の模型の写真は今でも容易に見ることができます。

上流階級での人気

「タイムズ」紙への投稿掲載以降、ジョゼフ・メリックの存在は次第に上流階級の人間たちの間で人気の存在となっていきました。

メリックへの支援や面会希望が多く寄せられるようになり、その中には女優のマッジ・ケンドール、イギリス皇太子のエドワード7世と、その妃・アレグザンドラなども含まれていました。

ジョゼフ・メリックの最期

しかし、病気の進行は止まったわけではなく、穏やかな生活を得てからも、メリックの頭部の腫れは止まらず、頭部は次第に大きくなり、晩年は正午までベッドから起き上がれずにいるのが常でした。

そして1890年4月11日にジョゼフ・メリックが亡くなっているのが担当の看護婦によって発見されました。死因は頸椎の脱臼あるいは窒息による自然死とされ、当初は自殺説もささやかれましたが、事故死との見方が有力です。

27歳での死でした。

メリックの死後にフレデリック・トレヴェスがまとめた回想録が戯曲化されたことでジョゼフ・メリックは「エレファントマン」として有名になりました。

また現在ではメリックの症状は特定の遺伝的疾患群をさすプロテウス症候群ではないかという見方が有力になっています。




映画におけるエレファントマン

映画や演劇など、様々な作品にエレファントマンは取り上げられていますが、ここでは映画に取り上げられたエレファントマンを紹介します。

『エレファント・マン』

1980年にはデヴィッド・リンチが『エレファント・マン』としてジョゼフ・メリックの半生を映画化しています。

ジョゼフ・メリックを演じたのはジョン・ハート。メリックの担当医師であるフレデリック・トレヴェスをアンソニー・ホプキンスか演じています。

関連記事:『エレファント・マン』はなぜ私たちを惹きつけるのか

『フロム・ヘル』

『フロム・ヘル』はアラン・ムーアの原作をアルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズが映画化した作品。エレファントマンの生きた時代と同じ時代に起きた『切り裂きジャック』をテーマにしています。

主演はジョニー・デップとヘザー・グラハム。

今作では大衆文化における19世紀のアイコンのような形で登場します。




19世紀末という時代

同時代を描いた映画に『グレイテスト・ショーマン』があります。

ジョゼフ・メリックは見世物小屋排斥の動きにより職を失いましたが、同様に見世物小屋で働くマイノリティに対する排斥運動は『グレイテスト・ショーマン』でも描かれています。

今のように医学が進歩する前、奇形の人々は神聖なものとして見られていた事もありましたが、次第にネガティブなものと受け止められ、1940年代からは障碍者への人権侵害として見世物小屋は次第に姿を消していくことになります。

1932年の映画『フリークス』は現実問題として排斥の意見に巻き込まれた映画でしょう。

監督のトッド・ブラウニングは自らも見世物小屋で働いた経験があり、見世物小屋を題材にした映画をとること、そしてそこに実際の見世物小屋の出演者をキャスティングすることは彼にとってごく自然なことでした。

しかし、興行的には「不親切かつ野蛮である」「猥褻で、グロテスクで、異常」などの酷評が集まり、大失敗の結果になり、30年代にはこの作品はほとんど受け入れられることはありませんでした。

こうしてみるとエレファントマンの生きた19世紀末という時代のイギリスには社会福祉はありつつも、まだ発展途中であり、ジョゼフ・メリックのような人物は見世物小屋で働くほかない側面もあったのでしょう。

しかし一方で上流階級には障碍者救済の考えも広まっていたことがわかります。

ここに人権主義の芽生えを見ることもできますが、その高まりがイデオロギーと化して彼らの自活の道を奪ったのもまた事実でしょう。

マイノリティへの人権侵害という言う意見には同意する部分もありますが、社会福祉の整わない状態でそれを実行するのはタイミングが悪いと個人的には感じます。

マイノリティを取り巻く様々な状況が入り乱れていた時代に生きた「エレファントマン」、ジョゼフ・メリック。

彼のそのあまりに劇的な人生はそんな時代が生み出したものでもあるのでしょう。




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