【感想 レビュー】マグダラのマリア

『マグダラのマリア』は2018年に公開されたイギリス・アメリカ合作の映画です。

監督はガース・デイヴィス、主演はルーニー・マーラとホアキン・フェニックスが務めています。

キリスト教における「マグダラのマリア」を主人公にした初の映画です。

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「マグダラのマリア」のスタッフ・キャスト

監督
ガース・デイヴィス

脚本
ヘレン・エドムンドソン
フィリッパ・ゴスレット

製作
イアン・カニング
エミール・シャーマン

出演者
ルーニー・マーラ
ホアキン・フェニックス
キウェテル・イジョフォー

「マグダラのマリア」のあらすじ

感想・レビュー

実生活でもカップルのホアキン・フェニックスとルーニー・マーラを主演にして製作された本作。

新約聖書に登場するイエス復活の証人であるマグダラのマリアを描いた作品です。

マグダラのマリアが登場する作品には、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』がありますが、マグダラのマリアを主役においたのは本作が初めてであるそう。

ホアキン・フェニックスは一日に300キロカロリーという摂取制限を設け、大幅な減量をしたうえでイエス・キリストを演じ切りました。

圧倒的な映像の美しさ

まず映画全体を通して圧倒的な映像の美しさに息を呑みます。

そしてルーニー・マーラの透明感もそこに絶妙にマッチしていて、マリアという女性のもつ純粋さや強さを例え台詞がなくても強く感じることができます。

ストーリーに関しては新約聖書の内容をかなり簡略化して描かれていることには言及しておきます。

ユダの裏切り

例えばユダの裏切りもはっきりとは示されず、キリストがローマ兵に連れ去られたことを微かな笑みを浮かべてマリアに話すのみ。

裏切りとして手にしたも、またキリストを見て自らの行為を悔やみ、それをもこの映画には存在していません。

新約聖書におけるユダは人間の弱さ、愚かさの象徴的な描かれ方をしていますが、『マグダラのマリア』におけるユダは層ではありません。

妻子をなくし、イエスの唱える「神の国」での再会を切に願う男。

ユダは神の国を現実的なもの、実存的なものとして信じていたことから、その(ユダが期待していた形での)実現がなされないことに落胆し、そのことがイエスをローマ兵に売り渡すことになるのですが、ユダの身に起きた不幸と、その不幸に対して「神の国が到来し、そこでは死んだ妻子とも再び会える」という希望を信じ続けたユダの気持ちを思えば、愚かという一言で切り捨てることはできません。

ちなみにユダが妻子を無くしていたという設定は聖書には登場しません。

『マグダラのマリア』はユダでさえ、許されるべき一人の人間として描いています。そのためにユダの裏切り自体は映画にとっては細かく時間を割くようなことではなかったのでしょう。

『マグダラのマリア』ではそのタイトル通り、ただ、マグダラのマリアを中心にキリストの物語が描かれます。

マグダラのマリア

また今作ではマグダラのマリアを全面的に肯定して描いています。カトリックでは長年男性優位の考え方からマグダラのマリアは罪深き女性であったと考えられてきました。

イエスに会うまで、彼女の中には悪霊が潜んでいたという説や、彼女自身が娼婦の出自であったという説が広く語られ、マグダラのマリアをそういう設定にした作品も多く見られます。

今作ではマリアの中に芽生えている自主性、意思の強さが家父長制の色濃く残るコミュニティとは相容れず、男性主導の生き方を拒否する姿勢を「悪霊がマリアに取り憑いているせい」だとし、無理やり除霊させられます。

マグダラのマリアの出自に関しては様々な説がありますが、今作では一貫してマリアを清廉で意思の強さを持った現代的な女性として描いています。

イエス・キリストの描かれ方

イエス・キリストの描かれ方にも触れておきましょう。

キリストの研究として、宗教として研究する見方と、歴史上の実在した人物として研究する見方(史的イエス)の2つがあります。

今作は前者の方で、聖書の中の伝説化されたイエスを描いています。

向かう先々で奇蹟を起こし、また世俗化したユダヤ教を批判したことでイエスに対する風当たりは強くなり、やがてその事がイエス自身を磔にすることにも繋がります。

具体的に言えば、イエスはユダヤ教で安息日に当たる日にも平然と医療行為をしていました。

保守的なユダヤ教の人々はどうにかしてイエスを政治犯として捕らえることを画策しました。

『マグダラのマリア』ではイエスが自身の死を予言しながらも、その運命に身を委ねることを決断した場面が描かれます。

なぜイエスは逃げなかったのか?恐らくそこまでの未来が見えていたのであれば、ユダが裏切ったこともわかっていたはずです。

しかし、それでもなおユダの裏切りを赦し、敵を赦す。

赦しの中にたどり着く境地こそが神の国であると、マリアは気づきます。

このとき、マリアはイエスの境地に達していました。

イエスは神の国を保つにはもはや自分の命を犠牲にする以外の選択肢はなかったのでしょう。

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