わかりやすい映画にどれだけの価値があるのか?

はい。
もちろん多くの人に受け入れられるには『わかりやすくあること』が大切な要素なのですが、それが過度なのではないかな?と思う最近なのです。

スポンサーリンク

デヴィッド・フィンチャー監督の場合

きっかけはデヴィッド・フィンチャーのインタビューでの一言。

映画よりもテレビドラマを好む理由について「映画ではキャラクターを描く時間がない」とフィンチャー監督は説明。「『大統領の陰謀』を見てくれ。すべてがキャラクターについてだ。だが、いまでは世界を滅亡から守ることだけになってしまっている。自分が作ることを許された映画ですら、登場人物が熟考するようなシーンはほぼない。ほとんどがカウントダウンのシーンだ」「いまでもスタジオのなかでより良い映画を作ろうと葛藤している人がいるし、仲の良い重役もいる。でも、スタジオ映画として作るときは、彼らも決められた枠に収めなくてはいけない。ロマンティックコメディか、不幸を描くアカデミー賞狙いか、スパンデックスを着た連中が登場する夏のスーパーヒーローの大作か、ほどほどの予算で作られる続編のいずれかだ」

出典:http://eiga.com/news/20171023/5/
デビッド・フィンチャー監督、現代のハリウッド映画の問題点を指摘 : 映画ニュース – 映画.com

言っていることは正に正論ですが、個人的には分かりやすさ、情報量の多さは必ずしも映画としての素晴らしさとイコールではないんじゃないか?と思ってしまいます。

(最近デヴィッド・フィンチャーのこの発言をよく批判的な文脈で引き合いに出しますが、僕にとってデヴィッド・フィンチャーは大好きな映画監督の一人でもあります。)

同じような発言は日本映画でもありますね。

北野武監督の場合

北野武監督。今では違いますが、10年くらい前までは、国外で高い評価を得るも、国内ではいまいち理解されない、そんな状態でした。

そんな中作られたのが2003年の『座頭市』でした。この映画は成り立ちがちょっと他の北野映画とは異なっていて、浅草ロック座の会長である斎藤智恵子氏からのオファーに応じて作られた作品です。

この作品はそれまでの北野映画とは違い、過度に説明的とも言える膨大なセリフと、流行りを取り入れたシンプルなカットでエンターテインメントに徹した作品となりました。

北野監督は自らを料理人になぞらえ、「『あんた、美味いんだかどうだかわからないものばっかり作ってるけど、本当に美味いもの作れるの?』という声に対して、美味いものを作ってやろうと思った」とあるインタビューで答えていました。(正確な発言うろ覚え。。。だって15年前の週刊誌の記事だもん)

結果的に北野映画として最高の興行収入を上げ、「美味い料理」も作れることを証明した作品になりました。

一方で『過度な説明』に対しては北野監督は因数分解を用いて以下のように答えています。

例えば、Xっていう殺し屋がいるとするじゃない。そいつがA、B、C、Dを殺すシーンがあるとする。

普通にこれを撮るとすれば、まずXがあらわれて、Aの住んでいるところに行ってダーンとやる。今度はBが歩いているところに近づいて、ダーン。それからC、Dって全部順番どおりに撮るじゃない。

それを数式にすると、例えばXA+XB+XC+XDの多項式。これだとなんか間延びしちゃう感じで美しくない。XA+XB+XC+XDを因数分解すると、X(A+B+C+D)となるんだけど、これを映画でやるとどうなるか、という話が「映画の因数分解」。

最初にXがAをすれ違いざまにダーンと撃つ。それから、そのままXが歩いているのを撮る。それでXはフェードアウトする。

それからは、B、C、Dと撃たれた死体を写すだけでいい。わざわざ全員を殺すところを見せなくても十分なわけ。それを観て、「Aを殺したのはXだとわかったけど、その他のやつらを殺したのは誰なんだ」と思ってしまうバカもいるとは思うけど、そういうやつははなから相手にしていない。

これを簡単な数式で表すと、X(A+B+C+D)。

この括弧をどのくらいの大きさで閉じるかというのが腕の見せどころで、そうすれば必然と説明も省けて映画もシャープになる。

出典:ビートたけし著「間抜けの構造」

これ、まさしくその通りと思います。

北野監督の因数分解はその一例ですが、画で表現しなくても、カットや俳優の表情や目線ひとつで全てを説明することや、想像させることも可能なのではないでしょうか。

デヴィッド・フィンチャーも『ベンジャミン・バトン』で、ケイト・ブランシェットを見舞うときのブラッド・ピットの何とも言えない表情を絶賛しているので、わかってはいると思うんですが。

もちろん壮大なドラマになればなるほど、描きたいものが増えれば増えるほど、二時間の長さに収まらないのは十分に理解はできます。

芸術としての映画

たとえば、一冊の小説があります。

ラノベじゃないから挿し絵もなし。

小説と映画なら圧倒的に映画の情報量のが上です。これに異論を唱える人は中々いないでしょ?

では、どちらが優れているか?どちらが面白いか?どちらが芸術的なのか?

一概にどちらとは言えないですよね。

例えば本には映像としての情報がほぼないので読みながら想像して、自分なりに視覚的なイメージや感情、行間を補足していく。

映画と比べて圧倒的に不親切ですが、だからといつて相対的につまらないか、と言われると決してそうではありません。

活字が持ちうるものは『想像する楽しみ』です。

文字から景色を思い浮かべるような。

ただ最近だと漫画でわかる○○とかも出てきましたよね。科学みたいな図入りの方が理解が進むものならいいのですが、『漫画でわかる太宰治』みたいに、小説を視覚化してしまうのはなんだか読者各々からイマジネーションの遊びをなくしてしまう気がしてなりません。

映画も同じことではないでしょうか。

説明してないからこそ、想像する。

一見意味の見えないカットの意味を探る。その中に歴史や哲学とのリンク、また作者の秘められた想いを見つけるのもまた芸術とのふれあいの楽しみのひとつではないでしょうか。

もちろん、エンターテインメントとして楽しむのもアリです。

まぁ最近流行りのマーベル系とかさ。俺あんまり好きじゃないけどさ。

ただ、芸術表現のひとつとして文学、絵画、音楽、彫刻、芝居、建築とならび映画も入っていること。

分かりやすさも大切ですが、想像を楽しむ目をもって映画を鑑賞することもまた尊いことだなと強く思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク