それはテレーズが自分の内なる愛情と主体性に気づいた瞬間でもありました。
旅行先のホテルでテレーズとキャロルは初めて体を重ねます。
欲望を掻き立てるものでもなく、男性的な荒々しいものでもなく、かといって過度にロマンチックに演出されたものでもない、ただただ、美しいラブシーン。
テレーズにとって、それは最高の時間になりました。
しかし、その様子はキャロルの夫が雇った男によって録音され、同性愛の証拠として提出されていたのです。
自分を偽る生き方では私たちの存在意義がない
実はこの部分もハイスミス自身の経験が基になっています。
ハイスミスがキャサリンの前に付き合っていた人妻のヴァージニア。ヴァージニアとの密会は彼女の夫が雇った私立探偵によって録音され、ヴァージニアは親権を失ってしまいます。
『キャロル』では、一度は治療により直ったふりをして、共同親権を得ようとしていたキャロルでしたが、そこには自分を偽り、また愛するテレーズとも会えない日々が続くという多大なストレスが待っていした。
夫とお互いの弁護士を交えての協議の日、突然キャロルは娘の親権を自ら手放し、夫に譲ることを宣言します。それまでの主張を突然翻したキャロルに一同が驚く中、彼女はその理由をこう語ります。
「自分を偽る生き方では私たちの存在意義がない」
それは偽名で自分を偽って本を出版するしかなかったハイスミス自身の心の叫びでもあるのでしょう。
そして、キャロルは娘の面会権のみを望み、それが認められなければ醜い争いが待っていると伝え、席を去ります。
「私たちは醜くないはず」
そう言い残して。
『キャロル』の映画化には11年という年月がかけられました。
この同性愛を描いたラブストーリーには、自身もゲイであるトッド・ヘインズが自ら監督を希望したといいます。
ヘインズは「原作が他のレズビアン小説と違うのは、可能性を秘めてエンディングを迎えることだ」と話し、それは映画でも踏襲されています。
確かな満足感と余韻
久しぶりに再会したキャロルとテレーズは会食をしたあとでそれぞれの用事のため、別れました。
しかし、テレーズはキャロルが忘れられず、誘われていたパーティーを抜けだし、キャロルのいるレストランへ向かいます。
たくさんの人の中からキャロルを見つけ出しまっすぐ彼女の前へ向かって行くテレーズ。
そんな彼女にキャロルが気づき、微笑むラストシーンで映画は幕を閉じます。
余韻とともに流れるエンドロール。この映画を観る人は確かな満足感とともにエンドロールを眺めていると思います。
これほどまで美しく、繊細な映画には滅多に出会えない。
改めてそう思います。