『ターミネーター4』は2009年に公開されたターミネーターシリーズの4作目。
クリスチャン・ベールを主演にし、舞台を審判の日以降の未来世界に設定した挑戦的な作品です。
当初、『ターミネーター3』までを旧三部作として、「審判の日」以降の世界を描く予定で構想が練られていたのが新三部作でした。
この『ターミネーター4』はその新三部作の一作目として公開されましたが、興行成績は振るわず、その後製作会社も倒産し、新三部作の製作も白紙になってしまいました。
『ターミネーター4』は駄作なのか
『駄作』との評価も目立つ『ターミネーター4』。
旧三部作で主演を務めたシュワルツェネッガーのみならず、今作の主演俳優でもあるクリスチャン・ベールからも批判的なコメントをされてしまった『ターミネーター4』ですが、個人的には評価したい作品のひとつ。
というのも『ターミネーター2』の構図のひとつである善玉ターミネーター(シュワルツェネッガー)VS悪玉ターミネーターという図式からの脱却を図った潔さ。加えて、審判の日以降の未来世界を砂埃にまみれたディストピアとして描く独特のビジュアルの格好よさ。
台詞の一つ一つやアクションシーンも同様に切れ味の鋭い、スタイリッシュなもので、予告編にはそのエッセンスがつまっていました。
しかしながら公開された作品を見てみるとどこか『物足りなさ』を感じるのも確か。
もちろん、『ターミネーター』『ターミネーター2』がこのジャンルに限らず大名作なわけで、『ターミネーター』と冠する作品を作るかぎり、そことの対比は避けられません。
映画評論家の前田有一氏も『これが普通のアクション映画ならいいが、ターミネーターシリーズとしてみるとなにかが足りない』とレビューされていました。
一体何が足りなかったのか、今回の考察はネタバレにも触れながらその部分にフォーカスしてみたいと思います。
※以下『ターミネーター4』の結末ネタバレを含んでいます
『ターミネーター4』の『物足りなさ』
カイル・リースの絶望感
スカイネットの中心部でT―800と接触、スターと共に逃げるカイルですが、ジョン・コナーと出会ってからは比較的『もうだめかも』っていう絶望感は薄くなりましたね。
『ターミネーター』の前半、サラの額にTー800のレーザー照射で照準が定められたときのどうしようもない絶望感。
『ターミネーター2』ではT-1000を溶鉱炉まであと一歩のところで追い詰めますが、まさかの弾切れ。一転して逆に追い詰められるサラとジョン。
間一髪のところをそれぞれカイル、T-800に助けられます。
『ターミネーター4』ではここまでぎりぎりの追い詰められ方がないんですよね。
サラの額にTー800のレーザー照射で照準が定められたときなんてあと一瞬遅ければサラ・コナーは殺されていたはずですから。
『ターミネーター4』でのカイルはジョンに助けられたというよりは自力でなんとか窮地を脱して、スカイネットから逃げようとするときにジョンと出会い、ジョンの庇護をうけながらもしばらく共闘する。
これが『ターミネーター4』でのジョンとカイルの関係です。
もちろん、この作品でのジョンは一部で『伝説の男』と言われながらも、まだ人類全体を導くような段階ではありません。
だからこそ、カイルを100%守りきることはまだ難しいのかもしれませんか、逆に『ターミネーター2』のTー800が少年時代のジョンに見せたような圧倒的な保護者感がないんです。
言い換えると、『ターミネーター4』だけみても、そのあとカイル・リースが命を懸けてサラ・コナーを助けにタイムトラベルに志願する動機としては弱いんですよね。
しかし、当初『ターミネーター4』は審判の日以後を描いた新三部作の一作目として構想されてもいました。
『ターミネーター4』の興行的不振により、予定されていた『5』、『6』の製作は白紙になりましたが、もしかしたらそのあたりのエピソードも追加されていく予定だったのかもしれませんね。
マーカスのサポート
しかしながら個人的には『ターミネーター4』の脚本は『ターミネーター3』の安易な脚本とは比べ物もないほどの良質な脚本を目指したのがありありと伺えます。
例えば、時間軸の巧みさ。
当初、母親のサラ・コナーから聞いていた歴史とちがい、予定より圧倒的に早くTー800が量産体制に入ろうとしていましたが、結論的にはジョンがスカイネットの生産工場を爆破したことで、結果的に量産が遅れ、結局はサラの予言通りの歴史になります。
他にも、ラストシーンでスターとマーカスが手を繋ぐシーンは、体は機械になってしまったマーカスの『人間性』を象徴しているようにも見えますし、そしていつかは戦争が終結し、マシンと人間が共存する世界を示唆しているようにも見えます。
余談ですが、このマシンと人間の共存は『ターミネーター2』のテーマでもあります。
他にもキャメロンのターミネーターとリンクするようなあらゆる小ネタ(ジョンの顔の傷の由来や、ショットガンの重心を切る方法をカイルに教えたのはマーカス、など)もあったり、『ターミネーター3』は『ターミネーター2』の劣化版コピーと僕は思いますが、『ターミネーター4』は別の物語で『ターミネーター2』に迫る完成度を求めたことがとてもよくわかりますし、なによりターミネーターシリーズへの敬意をすごく感じるんですね。
『ターミネーター3』がジョンの年齢設定を間違えていたり、『審判の日』が当初の予定より後にずれ込んだこととは対称的です。
ただ『ターミネーター4』ですが、クライマックスに近づくにつれてツッコミどころが増えてしまいます。
設定のツッコミどころ
例えばラストシーン。
当初のラストはジョンはTー800との戦闘によって死亡、マーカスが死んだジョン・コナーのかわりに、ジョン・コナーとして生き続けるという、ジョン・コナーのアイデンティティを根本から揺るがしてしまうラストでした。
しかし、公開版の『マーカスの心臓を得て命拾いする』というのも、やはりファンの思うジョン・コナー像からは外れていたようです。
もちろん、胸を貫かれて一夜明かして、かつ屋外で心臓移植をするというのもファンからのツッコミどころの多かった設定の一つ。
いくらSFとはいえど、普通に考えたらそんなに時間が経っていたならどう考えてもジョン・コナーは死んでますよね。
ファンが想定していた救世主としてのジョン・コナーのイメージはその『完全性』ではないでしょうか。
若い頃はターミネーターとの別れに涙を流したり、感情を優先させたり、自分の頭に銃を付きつけるなどの行動が目立ちました。
それでも青春期の不安定さと葛藤でもありますし、まぁ許せるもの。
しかし救世主として行動するジョンにはそれらを経て成熟した、ある意味での完璧さ、超人らしさが求められたのでしょうか。
その中で心臓がマーカスのものだったという設定はファンの思うジョン・コナーのイメージから外れていたのかもしれません。
違う形でのヒーロー
もっと言うならば、マーカスは心臓までいかなくても、もっと違う形でヒーローとして犠牲になるような設定でもよかったと思うんですよね。
例えば、カイル・リースを庇ってジョンは戦闘するには致命的な傷を追う(足の骨を砕かれる、銃が持てなくなる、とか)。そんなジョンをマーカスは守って、ターミネーターと相討ちになるとか。
本来一番シリアスで深い関係性になるのはジョンとカイルであるべきなのです。
今作でのそれはマーカスとジョン。
さらに言ってしまえば、カイルとマーカスが過ごした時間の方がカイルとジョンが過ごした時間より長いわけで、そういう意味でもジョンとカイルの間にはもっと強烈な「恩義のやり取り」があった方が、作品をよりドラマチックに見せることができたのにと思います。
『ターミネーター4』の意義
しかしながら個人的にはこの『ターミネーター4』、決して嫌いな映画ではありません。惜しい映画ではあります。しかし、惜しいと言えるということは全体的な完成度や熱意は決して低くないということ。
『2』の焼き直しに過ぎなかった『3』の世界から抜け出して、思い切って未来世界(『審判の日』以降の世界)に軸足を移した潔さ。
何よりシュワルツェネッガーのいない『ターミネーター』シリーズでも、『ターミネーター』の魅力は成立すると信じた「挑戦」。
『ターミネーター:ニューフェイト』では『2』以降のシリーズに関して「忘れてもらっていい」と発言したリンダ・ハミルトンですが、それでも「この脚本にはドラマがない」と一切のかかわりを拒んだ『ターミネーター3』に比べて『ターミネーター4』では声のみの出演だったにしろ、何らかの形でかかわったことは、この作品の「挑戦」やリスペクトを理解してくれていたことの証明ではないでしょうか。