さて、世界では厳しい結果になりつつあるも、日本ではヒットという『ターミネーター』シリーズ最新作の『ターミネーター ニューフェイト』。
海外公開は原題の『ターミネーター ダークフェイト』の名前さながらの興行成績ですが、日本では邦題の『ターミネーター ニューフェイト』のように上々のヒットの本作なのですが、やはりレビューは賛否両論となっています。
その大きなポイントはジョン・コナーの死。
『ターミネーター』シリーズを通しての最重要人物であり、未来の象徴とも言えるジョンの死は日本においても物議を呼んでいます。
今回は『ターミネーター ニューフェイト』がなぜ批判されるのかという部分と、公開当時評価の低かった『ターミネーター3』を今だからこそもう一度見直すきっかけになればという思いを込めてこの二つの「続編」の意義を考察していきたいと思います。
『ターミネーター2』は誰の物語なのか
まず、『ターミネーター2』は誰の物語なのかの解釈の違いによって『ターミネーター ニューフェイト』の賛否が分かれるように感じています。
『ターミネーター ニューフェイト』の監督、ティム・ミラーはサラ・コナーの物語だと語っています。確かに『ターミネーター2』のナレーションは一貫してサラ・コナーではあるものの、登場人物としては明らかにジョン・コナーを中心に描かれています。
そもそもですが、『ターミネーター2』にははっきりとした唯一の主人公が存在しないと言ってもいいでしょう。
T-800、サラ・コナー、ジョン・コナー、それぞれが「主人公格」であり、それぞれに成長の物語が存在します。
それが『ターミネーター2』の真実ではないでしょうか。
では、ここで『ターミネーター2』をサラ・コナー、ジョン・コナー、どちらかの物語と仮定した上で続編を考察してみましょう。
仮定1. サラ・コナーの物語
まず、サラ・コナーの物語と仮定した場合ですが、彼女は『ターミネーター2』の序盤ではターミネーター=絶対悪と捉えています。未公開版ではジョンの保護者として送られてきたT-800のチップを破壊しようとさえしています。
しかし、ジョンと触れあうT-800の姿にサラはターミネーターこそが理想的な保護者であること、そしてエンディングで殺人機械であるターミネーターが人の命の価値を学べたことに希望を見いだすのです。
『ターミネーター2』におけるサラ・コナーの成長はここでしょう。
それでいけば、『ターミネーター ニューフェイト』のサラ・コナーはより深い憎しみをターミネーターに持っており、『ターミネーター2』の序盤のサラ・コナーに舞い戻っているようにも感じます。
『ターミネーター ニューフェイト』に登場するターミネーターT-800はかつてジョンを殺した個体ではあるものの、任務を終えた彼は人間社会に溶け込み、一市民として生活を送っていました。
『ターミネーター2』以上の深い憎しみを抱いたサラ・コナーが再びT-800を赦せるようになるのか、結局のところ『ターミネーター ニューフェイト』も『ターミネーター2』もサラ・コナーの成長テーマは同じ部分にあるように感じます。
それでも、今再びリアルなものとなったAIの可能性、多くのシステムをネットワークに依存するようになった現代の有り様を的確に突いた『審判の日』の設定など『ターミネーター ニューフェイト』は確かに「今」を反映させた現代のターミネーター映画だと思います。
仮定2. ジョン・コナーの物語
一方、『ターミネーター2』をジョン・コナーの物語とした場合、『ターミネーター ニューフェイト』の冒頭でジョンは殺されており、『ターミネーター ニューフェイト』へ批判が集まるのは当然のことと思います。
そんな中で救いとなるのは『ターミネーター3』の存在でしょう。
公開当時は設定のミスや『ターミネーター2』の焼き直しのようなストーリー、キャッチコピーと裏腹のエンディングなど(キャッチコピーは日本版のもの)、低評価の作品ではあったものの、ここに来て再評価の動きも高まっているように感じます。
まず、いくつか『ターミネーター3』の評価すべき点を挙げていきます。
『ターミネーター3』の評価すべき点
『ターミネーター3』の公開は2003年ですが、今作にもその当時の時代性はパッケージングされています。
そのひとつはインターネットの普及によってスカイネットの設定を中枢を持たない分散型システムと定義したことでしょう。
それまではスカイネットは人間の軍隊の組織をそのまま機械に置き換えたもので、システムには頭脳となる中枢があるという設定でした。
しかし、『ターミネーター3』ではインターネットを介して広まるコンピューターウイルスのような描かれ方をしており、ジョン・コナー自身も「システムの中枢などない、だから破壊できない」と述べています。
またタイム・パラドックスの矛盾を果敢に解消しようとしたところも評価されるべきでしょう。
本当に「審判の日」がなくなったのであれば、未来が変わり、ジョンもターミネーターも生まれなくなります。
日本版のキャッチコピー、「恐れるな、運命は変えられる」とは裏腹にいずれにせよどのみち審判の日は始まると設定づけた『ターミネーター3』では、このタイム・パラドックスを最小限に抑えることに成功しています。
皮肉なことにタイム・パラドックスは『ニューフェイト』でさらに大きくなってしまいました。
『ターミネーター ニューフェイト』ではサラはスカイネットによる審判の日を食い止めることに成功しています。
しかし、その後も何体ものターミネーターが未来から送られてきていることが劇中で明かされます。
ジョン・コナーを殺害したターミネーターも、「審判の日」以降に未来から送られてきたものです。
なぜ変わったはずの未来から相変わらずにターミネーターが送られてくるのか?
そしてそれらがサラ・コナーが破壊できた事実を踏まえると、恐らくはサイバーダイン社であり、かつT-800のような旧式のターミネーターでしょう。
『ターミネーター ニューフェイト』では未来で機械と人間の戦争は起きているものの、その相手はサイバーダインのスカイネットではなく、リージョンと呼ばれるものであり、サラの知り得た未来とは違う未来へ変貌していたのでした。
さて、話を元に戻しましよう。
『ターミネーター2』をジョン・コナーの物語と仮定した場合、やはりファンが望む形はジョンを主人公にした『ターミネーター3』なのではないか、ということです。
キャラクターへの愛
長く愛されるキャラクター、それは製作者側にとってもそうでしょうし、もちろんファンからも強く支持され人気を得ていることは当然のことです。
しかし、製作者とファンが同じようにキャラクターと向き合っているのかと問われるといささか疑問でもあるのです。
ファンはキャラクターに共感し、ともに成長していきます。
その接し方は友情のようであり、仲間のような接し方でしょう。
一方、製作者は神のような視点ではないかと思います。紛れもなくキャラクターそのものを作ったわけですから。
この場合において、製作者はキャラクターに愛情があるとしても、冷静な視点でキャラクターの生死を決めることもできます。
あくまで製作者の視点は神の視点なのです。
ファンにとってキャラクターへの思い入れはある意味製作者本人より強くなる傾向があります。
ファンによってはそのキャラクターはかけがえのない親友であったり、もしくは人生に迷ったときに行き先を示してくれた先生であるかもしれません。
そう、ファンのキャラクターへの思い入れと製作者のキャラクターへの思いは時に相反するのです。
その好例がジョン・コナーというキャラクターに表れているように思えてなりません。
『ニューフェイト』はサラ・コナーの物語です。
しかし、ジョン・コナーの物語を断ち切ってしまった作品でもあるのです。
をジョンに、変わる救世主キャラクターに位置付けようと、ファンが愛したのは30年以上にわたって救世主としてシリーズに君臨し続けたジョン・コナーそのものなのです。
もちろん、『ターミネーター3』以降のジョン・コナーのキャラクター性が変貌していることも否定はできません。
『ターミネーター2』は少年ジョン・コナーの成長物語であり、『ターミネーター3』は一介の若者から指導者としてのジョン・コナーに成長する物語でもありました。
しかし、広く受け入れられた『ターミネーター2』に比べ、『ターミネーター3』のジョン・コナーには否定的な意見も目立ちます。
その理由としては、ジョン・コナーを演じたニック・スタールの顔立ちがエドワード・ファーロングとは違う系統であったこともあるかとは思いますが、人類の救世主となるはずであった男が日雇い労働で自堕落な若者に成り下がっていたことによって、ジョン・コナーの持っていたヒーロー性を打ち砕いてしまったことが挙げられます。
ターミネーター2でT800との別れの際に涙をこらえながら「行くな」と命令したジョン。わずか10歳の少年ながらも指導者としての側面が垣間見れた瞬間でした。
しかしながら『ターミネーター3』ではとことん落ちぶれた姿で登場してしまうのです。
ここからジョン・コナーというキャラクターの変質が始まります。
一作目で語られるジョン・コナーとは、追い詰められた人類にとっての唯一の希望であり、救世主でした。正に今日のイエス・キリストのようなイメージです。
対して3作目以降は言わば「史的イエス」ともいうべき描かれ方であり、一個人としてのジョン・コナーの実像が描かれています。
監督のティム・ミラーは『ターミネーター ニューフェイト』でジョンを殺した理由として審判の日が来ない世界で大人になって教師や会計士になったジョン・コナーの姿は逆に観客をがっかりさせると考えたそうですが、それでも死という設定はキャラクターを愛するファンにとっては深い絶望を与えるものでしょう。
『ターミネーター ニューフェイト』は『ターミネーター2』の正当な続編として公開されました。
しかし、何をもって正当な続編かというのはファンの一人一人が決めるものではないでしょうか。
その意味では『ターミネーター3』にも今では正当な続編としての価値が確かにあると感じさせます。