今回はジブリ映画の中でも問題作となった『もののけ姫』について考察していきます。
幾重にも折り重ねられたそのメッセージや、宮崎駿監督の思考まで居っていくことは実質不可能なので、ここでは解説ではなく、個人の主観を含んだあくまでも考察の域に留めておきたいと思います。
室町時代という時代
まず前提として『もののけ姫』の舞台となった時代から。
『もののけ姫』の舞台となったのは室町時代後期。
各地で戦乱の様相をみせている、いわば戦国時代の初めとも言っていいでしょう。
(戦国時代という時代は実際には存在しませんが。)
歴史的な実際の区分はさておいても、『もののけ姫』は古代と近代その転換期を描いた作品だと思います。
古代を象徴するものが、自然の中で生きる神々であったり、またアシタカの生まれた村といえるかもしれません。
また近代の象徴としては、エボシ御前や彼女が築き上げたタタラ場というシステムがその一つでしょう。
このあたりは後述するとして、次に『もののけ姫』に描かれる歴史観を見ていきます。
『もののけ姫』の歴史観
本作の中世日本の歴史観は網野善彦氏の歴史観に強く影響を受けたものと言われています。
網野善彦の歴史観網野善彦氏の歴史観はそれまでの農民中心で捉えられてきた日本史に疑問を投げ掛け、中世日本には様々な職能民がいたとするもの。
現代では社会の最下層として位置付けて語られることの多い「非人」という身分についても、ただ非差別民というだけではなく、神に関わる仕事をするアウトサイダーとして畏れられる存在でもあったとされています。
それに応えるかのように『もののけ姫』では、ほとんど農民と呼ばれる登場人物は出てきません。
例えばエボシが統率するタタラ場の人々を例にとると、タタラ場で働く女たちはもともと遊女、もしくは遊女になる予定の女だったと言われています。
「エボシ様と来たら、売られた女を見るとみんな買いとっちまうんでさぁ」
このセリフにそれが示唆されています。
他にも、タタラ場の女、トキの夫であるコウロクの職業は牛飼い。網野史観でいえば、牛飼いもまた社会のアウトサイダーと言える職業でした。
たたり神の呪い
『もののけ姫』はアシタカの住む村をたたり神が襲う場面から始まります。
たたり神は怒りや憎しみなど、憎悪の感情のメタファーとして描かれます。
憎しみの連鎖を分かりやすく表したものがたたり神ではないでしょうか。
たたり神に手を出すと呪いを受けるとされていますが、アシタカは村の女性たちをたたり神から救うために、やむを得ずたたり神を弓で射抜き倒します。
その代償としてアシタカの右腕には死に至る呪いの痣が残されました。
アシタカがその腕に受けた呪いもアシタカの憎悪に反応し、過剰なまでの殺傷能力を彼に与えます。
アシタカという「現代」
宮崎駿監督は主人公のアシタカに現代の若者を反映させたと言います。
それは理不尽に降りかかる時代による苦難を一身に引き受けなければならないという点で共通しています。
アシタカを襲ったたたり神は元々は猪神であるナゴの守(ナゴノカミ)でした。しかし、エボシが撃った石火矢の弾を受けたことで、弾が内蔵を貫き、肉を腐らせ、ナゴの守を死に至らせたのです。そしナゴの守は各地で憎しみを集め、たたり神へと変貌します。
直接的にはアシタカが手を出したことで彼は呪いを受けた。しかし、大きな観点から見ると、エボシが生み出した憎しみの連鎖を一身に引き受けているのが、全く無関係のアシタカであるという見方も出来ます。
呪いによりアシタカは村を追われ、呪いを解くための旅に出ます。
『もののけ姫』の世界
果たして故郷を出たアシタカが見たのは争いに溢れた世界でした。
『もののけ姫』で描かれる世界はあらゆる戦いに満ちた世界です。
そんな中でアシタカはジコ坊という僧と出会います。僧侶の体を成していますが、実際は物事を影から操るフィクサーのような存在であり、朝廷(天皇)からエボシ宛に手紙を届けたり、またエボシに戦力である石火矢衆を手配したりと、飄々とした性格の裏で暗躍するしたたかさを併せ持っています。
怪僧とも言えるこのジコ坊ですが、まさにアウトサイダーを象徴するような存在です。
エボシ御前の正義
アシタカは戦傷者として倒れていたコウロクらを助けたことが縁でエボシ御前と彼女が治めるタタラ場へ足を踏み入れます。
そこでアシタカはエボシが山を切り崩し、自然を破壊しながら鋳鉄を行っていること、そしてナゴノカミの体内に入っていた礫がエボシが放ったものと知り、怒りを覚えます。その怒りに反応して、彼の呪われた右腕は剣へ手を伸ばし、エボシを殺そうとします。
「その右手は私を殺そうとしているのか」
エボシの問いにアシタカはこう答えます。
「呪いが解けるものなら私もそうしよう」
この時点ではアシタカもエボシを単純な悪とみており、かつ「呪いを解くためには殺してもいい」というある意味では自己中心的な考え方も見え隠れします。
しかし、彼女はまた非差別民を受け入れ、彼らの徳の高い人物であることも明かされます。
また前述のように、彼女は売られた女性達を買い、タタラ場のなかで全うな生活を送らせていました。
「もののけ姫はこうして生まれた」によると、劇中では明かされませんが、エボシ自身に人身売買された過去があると設定されています。
倭寇(13~16世紀の朝鮮・中国地方の海賊)の頭の妻にされるも、次第に組織を支配するようになったのち、頭を自らの手で殺し、明の兵器を日本に持ち帰ってきたとのことです。
また『歴史と出会う』の中では網野善彦氏がエボシの出自もまた遊女なのではないかと推測されています。
エボシ邸を去ったあと、アシタカはタタラ場を訪れます。
「ここの生活は辛いか?」そう聞くアシタカにトキは「そりゃあね、でも下界に比べるとずっといいよ」と言います。
廻りの女たちも「男が威張らないし」「ご飯が一杯食べられる」とトキの意見に同調します。
シタカはここで、エボシは単純な悪人ではないことを実感するのです。
『普通なら女がタタラに入ると鉄が穢れると相当嫌がるものだがなぁ』
タタラ場の男のセリフです、エボシが作り上げたタタラ場というシステムは極めて合理的で、かつ先進的なものでした。
明からの輸入品であった銃火器を自分達に合わせて独自に開発し直すなどの技術を有し、恐らくタタラ場の製鉄技術や設備、石火矢の開発能力などは争いが頻発する当時にあって近隣諸国は喉から手が出るほど欲しいものだったはず。
そのためにタタラ場は周辺の侍との争いが絶えませんでした。
そんなタタラ場をモロの一族が襲います。単身乗り込んできたのは『もののけ姫』サンでした。
サンのアイデンティティ
サンもまた複雑なキャラクターです。その出自は森を犯した人間が山犬神であるモロに差し出した生け贄。
モロはサンについて「森を犯した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした子」と述べており、またサン自身も自分の出自は人間であることに気づいていて、それを否定するかのように「自分は山犬だ」と激しく主張します。
モロ曰く「人間てもなく、山犬にもなり切れない、哀れで醜い、かわいい我が娘」がサンなのです。その事をサン自信も自覚しているのか、アシタカの「そなたは美しい」の言葉に激しく動揺します。
サンにとって美しいとは自分とはもっとも縁遠い言葉であったはず。そしてサンの山犬というアイデンティティと、しかし人間という現実の矛盾はモロにさえ救えない問題でもありました。
山犬として生きていくのも不可能ならば、人間として彼女を受け入れてくれるコミュニティも存在しない。
「お前にサンが救えるか?」
そう怒鳴るモロですが、アシタカの中にサンの居場所を見つけたのもまた事実でしょう。
終盤、モロ自ら「お前にはあの男と共に生きる道もある」サンにとアシタカとの人生を提案しています。
アシタカのヒロイズム
アシタカには確かに現代の若者像を反映した設定である一方で、確かなヒロイズムも持ったキャラクターです。当初『もののけ姫』のタイトルは『アシタカせっ記』の予定でした。タイトルのせいかポスタービジュアルではサンがメインですが、やはり主人公はアシタカなのです。
アシタカは国を追われ、その瞬間からどこにも属さない者として生きていきます。この時代、庶民にとっての世界は自らが属するコミュニティを表しますが、国を追われたアシタカにとっては全てを相対化して俯瞰で見るという視点を手に入れたことになります。
アシタカは全てを見て、そしてどこにも属さないがゆえに、和平への道を模索していきます。
他の事例では例えば幕末に黒船という「日本の外の世界」が現れてから逆に日本という国家単位の概念が庶民にも生まれたということにも似ているかもしれません。
同様にこの視点を持ちながらそれを利用しようと画策したのがジコ坊です。その意味ではアシタカとジコ坊は光と影のような関係でもあるでしょう。ただ、アシタカは希望を諦めない一方で、それらを容易く裏切り続ける現実に苦悩し続けます。
エボシとサムライ、もののけ達の戦いに一切アシタカは関わっていなくて、彼が気づいたときにはすでにそうなっている。
これは非常に興味深い構図で、いわゆる主人公が常に出来事の渦中にいて主体的に物語を進めていくというものとは一線を画します。
これも現代の反映ではないでしょうか。
一市民が国同士の争いを止めるのが難しいように、ここにおいてはアシタカもまた一個人にすぎません。しかし、アシタカは個人としてそれをどうにか止めようと奮闘し、自ら渦中に飛び込んでいく。
ここがアシタカの主人公らしさを感じるところです。
生きることの残酷さ
網野善彦氏は著作『歴史と出会う』の中で『もののけ姫』について感想を述べられています。
その中で生きることは殺すことであり、シシ神はそのことの象徴だと論じられています。
確かにすべての生き物は他の生き物を殺すことなしには命を永らえる、生きていくことができません。
その過酷で残酷な現実を『もののけ姫』の登場人物すべてが受け入れていると個人的には感じます。
しかし、そのなかでただひとりアシタカだけが融和を目指していくのです。
「そなたの中には夜叉がいる」
アシタカはエボシに向かってそう言います。夜叉とは
そしてアシタカはタタラ場の面々に自らの呪いを明かします。
ざわめく人々のなかにおいてしかしエボシは動じません。
「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな」
エボシにしてみれば、自然を破壊し、多くの生き物を殺していくのも自分達がいきていくためであり、それもまた自然の摂理であるということでしょう。
エボシから見ればアシタカの言葉など、青臭い理想論でしかなかったのだと思います。
自然は自然なのか
『もののけ姫』をごく表面的に観ていくならば、もっともわかりやすいメッセージの一つは自然との調和でしょう。
しかし、アシタカを現代の若者として捕らえるならば、『もののけ姫』で描かれる自然もなんらかのメタファー(暗喩)であるはずです。
自然とどう向き合っていくのか。それは現代にはより増して深刻な問題になっています。
もはや地球そのものの自己再生能力さえ敵わないほどの規模でその破壊は進んでいます。
ではもののけ姫で描かれる自然はそのまま自然の意味しかないのか。
僕は現代の文脈に置き換えるのなら「自然」を「伝統」と置き換えることもできると思っています。
古来より日本には(八百万)の神がいると言われてきました。それはありとあらゆるものに魂が宿るという考え方です。
現代において、伝統は合理性のものに軽視される傾向にあるかもしれませんが、それでもなお、日本人の精神性はこの多神教をベースに成り立っていると感じます。
『ナウシカ』のアンチテーゼ
『もののけ姫』の製作時、鈴木敏夫プロデューサーはエボシを殺すことを提案しました。
確かにエボシが死ぬとなれば、物語の尺もより短くすることができ、かつストーリーもよりシンプルでわかりやすい印象になったでしょう。
『もののけ姫』は「風の谷のナウシカ」から13年という宣伝文もありました。『もののけ姫』は非常に『ナウシカ』を意識しており、『ナウシカ』へのアンチテーゼとも言える作品として位置していたのではないでしょうか。
その点からすると、「エボシが死ぬ」という結末は宮崎駿監督にとっては到底受け入れがたいものだったでしょう。
ナウシカでは単純な善と悪の二項対立の構図が強く、ある意味では非常にアニメらしい見せ方を採用した作品だとも言えます。
もちろん、映画版のナウシカは作品世界全体から見た場合はまだ序章に過ぎない部分であり、ナウシカという作品全体を示した漫画版のナウシカは多くの価値観を含んでもいます。
一方で『もののけ姫』は宮崎駿監督自らが「解決不能な問題」と発言しているように、単純な善悪では現実は計れないこと、そしてエボシを殺してしまうと、「エボシ=悪」の図式の枠を超えられないことへの懸念があったのかと思います。
暴力的な解決
果たして再び首を手にいれたシシ神はその瞬間遂に倒れ、消滅します。
そしてその爆風はタタラバも何もかもをすべて吹き飛ばしてしまう。
しかし、荒れ地には緑が宿り、アシタカの呪いは溶け、タタラ場の人たちの病気も快癒します。
しかしながら、この解決方法は今思えばいささか強引に過ぎるとも思えます。
一つ一つを丁寧に解決していくのではなく、一度すべてを強制的にリセットするというストーリーはある意味では暴力的とすら呼べます。
ただ、そこにあるのは「一つ一つを丁寧に解決していくのはもはや不可能」という片面の現実ではないでしょうか。
1997年という時代
ただ、もののけ姫が公開された1997年という時代という意味の「現代」であって、アシタカに反映されているものも、1997年の若者像ということは注釈を入れておきます。
1997年当時はコギャル文化であったり、逆に少年犯罪など、10代の若者が消費者のトレンドであったり、また10代ゆえの危うさなどにも改めて目が向けられた時代だったと感じます。
まだネットも未発達の時代であり、流行発信はテレビや雑誌、みんなが同じ流行を求めていました。
また、世界的にもグローバリズムが進行する前であり、近年騒がれている「若者の貧困」などもまだ顕在化していなかったように思います。
今はもう若者を若者として総称することは難しい時代です。個人の価値観は多様化し、ダイバーシティの潮流とともに、それぞれが認められるべきだという流れになっています。
ネットに溢れる意見も玉石混合ですが、中には目を見張るようなものもあり、若者=未熟などの見方はもはや過去のものでしょう。
また、もののけ姫の鈴木敏夫プロデューサーは、「生きろ。」という本作のキャッチコピーに関連して、バブルの崩壊や阪神淡路大震災、オウム事件などを例に挙げて、そんな世相のなかでこそ、より『生きろ。』というキャッチコピーの強さが際立つとも述べています。
21世紀の「もののけ姫」
そう考えてみると、公開から20年以上経った今では、『もののけ姫』は私たちにどう映るでしょうか。
自然を守るというよりも、むしろそれぞれの正義とエゴのぶつかり合いの方がよりリアリズムを持って迫ってきます。
一方ではアシタカの持つ運命の理不尽さには今の人たちの方がより共鳴するかもしれません。
それは年金に代表されるような世代間での格差などもそうでしょう。
経済的な観点から言えば、もののけ姫公開から20年以上経った今、日本の名目GDPは諸外国に比べて著しい成長もなく、ほとんど横ばいで推移しています。
21世紀に顕在化した若者の貧困は『もののけ姫』ではまだ描かれておらず、むしろ貧困に関しては「リアリティがない」とまで言われています。