ゾンビ映画の原点にして頂点。それが1978年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督のホラー映画『ゾンビ』です。
突如よみがえり、生きている人間を襲いだした死者の群れ。
映画史のゾンビ像
当初、映画に登場したゾンビは、ただ主人の命令に忠実に従う従者のような存在で物語の主役に位置づけられることはないものでした。
そのため、史上初のゾンビ映画でもある「恐怖城」では恐怖のポイントを「ゾンビに襲われること」ではなく、「ゾンビにされてしまう」ことにおいていました。
またこのころのゾンビは人を襲ったり、襲われた人もゾンビになるという、今日よく見かけるような設定もありませんでした。
今日のゾンビ像を決定付けたのは同じくジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・リビングデッド』。『ゾンビ』の前日譚にあたるこの映画では従来のゾンビ像に吸血鬼の要素を加えて、襲われるだけではなく、噛まれたものもゾンビとなり際限なく増え続けるという別の恐ろしさが加わり、今日のゾンビ像の基礎を確立させました。
※ゾンビ映画の歴史に関しては当ブログの記事「逃げたり戦うだけじゃない!イマドキゾンビ映画の超進化!」をご覧ください。
『ゾンビ』に生き続ける人間社会への風刺
さて、今の視点から見ると「ホラー映画」としてはそんなに怖くないのですが、それでも今なお『ゾンビ』が名作と呼ばれ続けるのは、ホラー映画の裏にある、人間社会への風刺が今でも鮮烈なままだからだと思います。
『ゾンビ』のレビューで書いたことをさらに深く考察していきますが、例えば生前の行動習慣のなごりでショッピングセンターに集まるゾンビ。これは社会に何の疑問も持たず、ただメディアに煽られて過剰な消費行動をとり続ける人々への揶揄。
『ゾンビ』公開から20年後の90年代にもデヴィッド・フィンチャーが「ファイト・クラブ」で人々の過剰な消費についてより直接的な描写で批判しています。
そういった意味でも『ゾンビ』の持つテーマ性は今においても色あせてはいないのです。
他にもゲームのようにゾンビを狩り、ショッピングセンターで物資を略奪する不良たち。
前述のとおり、ゾンビの行動原理として生前の行動を繰り返すというのがある(※)のですが、加えて「なぜ死者を食らうのか」ということに関してですが、2002年の映画「バイオハザード」の中ではゾンビ化した人間には原始的な本能、つまり食べることのみが残るとされています。
本能で人を食い殺すゾンビと、レジャーのようにそんなゾンビを殺害していく人間たち。
果たしてどちらが暴力的で野蛮なのでしょうか。
また、不良たちだけでなく、主人公たちも同様です。
当初、子供のゾンビをやむなく射殺したピーターの表情には、自分の行動への迷いが見て取れます。しかし、終盤ゾンビを「匹」と表現していることから、ゾンビを自分たちと同じ人間ではなく、動物と同じような認識に変わっていることが伺えます。
非常事態において、人間性というのはかくも脆いものなのだということを本作は示唆しているようにも思えます。
※これがあったからこそゾンビ化したスティーブンは人間だったころ使っていたショッピングセンター内の隠し部屋へ向かったのでしょう。
ジョージ・A・ロメロの根底にあるもの
本作でブレイクし、「ゾンビの父」と呼ばれる映画監督ジョージ・A・ロメロ。
本作の前日譚にあたる『ナイト・オブ・リビングデッド』、そして本作の続編にあたる『死霊のえじき』、『ランド・オブ・ザ・デッド』、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、『サバイバル・オブ・ザ・デッド』など多くのゾンビ映画を監督しています。
若いころにスタッフとして参加したハリウッド方式の映画製作に疑問を抱き、そこからハリウッドとは距離を置きます。
そこからくる反骨精神は『ゾンビ』をはじめとするロメロの多くの作品に見て取れます。
例えばゾンビ化した人間との一夜の攻防を描いた『ナイト・オブ・リビングデッド』ではゾンビの攻撃から生き残ったのは当時マイノリティであった黒人の男性ですし、その黒人の男性はゾンビではなく、白人警官によって射殺されるという何ともショッキングなラストでした。
また2005年の作品『ランド・オブ・ザ・デッド』では、新しい問題提起として貧富の格差が取り上げられています。
『ゾンビ』のメッセージ
生前の行動習慣のなごりでショッピングセンターに集まるゾンビ。そしてそこを襲撃する不良たちによる略奪。加えてゲームのようにゾンビを狩る野蛮さ。そして生き残るのは黒人と女性というラスト。そして前述の苦みを残すエンディング。
資本主義による過剰な物質社会・消費社会への皮肉、白人優位の人種差別に対する皮肉。
まさに当時の負の価値観の全てをひっくり返すような作品でもあると思います。
エンディングに関しても同様です。
当時は76年に公開されたシルヴェスター・スタローンの『ロッキー』のヒットに代表されるように、ベトナム戦争の終焉と言う社会的な要因もあってそれまでのアメリカン・ニュー・シネマの暗くアンチ・ハッピーエンドとも言える作風の映画の人気は下火になっていました。
ニューシネマで打ち出されるメッセージの殆どは「個人の無力」であったが、70年代後期になると、ジョン・G・アビルドセン監督の『ロッキー』に代表されるように、「個人の可能性」を打ち出した映画が人気を博すようになる。さらにジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』の大ヒットにより、再び50年代の夢とロマンの大作映画や、それまで子供向けとされていたSF映画も復活した。戦争により強い大国アメリカの理想像を打ち砕かれ、長らく暗い、憂鬱なニューシネマの虚無感に共感していたアメリカ国民は、戦争の終結と共に、再び明るく希望のある作品を求めたのである
出典:アメリカン・ニューシネマ – Wikipedia
とのことですが、この『ゾンビ』は映画界のそんな風潮さえまた皮肉るようなエンディングに仕上がっています。
『ゾンビ』のエンディング
ピーターはフランを屋上のヘリに送り出した後、一人ゾンビであふれかえたショッピングセンターに残り、もはやこれまでと自殺を図りますが、ゾンビが部屋に入った瞬間に寸前で思いとどまります。そしてピーターはゾンビを押しのけながらフランの待つヘリに飛び乗ります。
しかし安堵も束の間、
「燃料は?」
「あまりないわ」
「…まあいいさ」
二人はともにわずかな燃料のヘリで夜明けの空へ飛び去ってゆきます。
まるでダスティン・ホフマンの「卒業」のエンディングのホラー版のよう。
死者であるゾンビの「食べる」本能に対して、生者である主人公たちの「生きる」という本能。
夜明けの明るさは映画全体を通して唯一の希望を映し出しているように思います。
ショッピング・センターという「消費社会」を後にする二人ですが、しかしだからと言って何もかも丸く収まるわけではない、そんな未来を暗示させます。
ジョージ・A・ロメロがゾンビで描いたのは人間の愚かさであり、現代社会への皮肉でした。
ラスト、そこから夜明けの空へ飛び去ってゆくフランとピーターはそんな世界から解脱したかのようにも思えます。
しかし、それでも厳しい前途を予感させるところにロメロのテーマへの真摯さが伺えます。