ハリウッドを襲った魔女裁判「赤狩り」とは何か?

今回は現在の魔女裁判とも呼ばれた「赤狩り」についてみていきます。
ハリウッドはなぜ「赤狩り」の標的となったのでしょうか?

冷戦の始まり

アメリカとソビエト連邦が世界のリーダーの座を巡って争った冷戦。

それは言い換えれば資本主義と共産主義のどちらが世界の覇権を握るかという戦いとも言えるでしょう。

第二次世界大戦当時の共産主義の行き着く先は国家の否定と革命でした。

アメリカが共産主義の脅威に気づいたのは朝鮮戦争の時。

その時にダグラス・マッカーサーは「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」(引用: 産経ニュース)と述べています。

「日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」

マッカーサーは後にこうも述べています。アメリカの共産主義に対する脅威の認識は日本よりもずっと遅れていました。

時を同じくして、アメリカではジョセフ・マッカーシーの主導のもと、共産主義者をあぶり出す『赤狩り』が始まるのでした。

ハリウッドの「赤狩り」

もともとハリウッドはリベラルな風土があり、戦時中は共通の敵の存在によって、政府にハリウッドは協力していました。
日本の映画界も戦時中には国威発揚のための映画を多く生み出しました。
アメリカにおいても同様に軍部の要請でハリウッドから多くの作品が生み出されました。戦争が終わり外部に共通の敵を無くしたアメリカは、自分達の内部の危険を猛烈に意識するようになります。それが共産主義でした。
「敵が海から我が国を侵攻するために兵を送ってきたのではなく、むしろ地球上で最も素晴らしい国の恩恵を受けている者達の裏切り行為による」

赤狩りの中心人物であった共和党右派のジョセフ・マッカーシーは共産主義についてこう述べています。
そして、赤狩りの目はハリウッドに向けられました。アメリカは第二次世界大戦の時にハリウッドが大衆にもたらす影響力の大きさを知っていたのです。

ハリウッドでの「赤狩り」を推進したのはジョン・ウェインを中心とする「アメリカの理想を守る映画連盟」。ちなみにこの同盟のパンフレットを書いたのは急進的な自由放任資本主義者としても知られる小説家のアイン・ランド。

後述するダストン・トランボをはじめとする「ハリウッド・テン」、喜劇王として有名なチャールズ・チャップリンらがハリウッドから追放されました。

 

赤狩りに関する映画たち

自らの正当性を示そうとした『波止場』

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そんな中で共産主義者を自ら告発し、ハリウッドでの自身の地位を守ろうとした監督もいます。
その代表例が『波止場』『エデンの東』などの名作を監督したエリア・カザンでしょう。マーティン・スコセッシ監督の師としても知られる名監督です。たしかにカザン自身は若い頃に共産主義にかかわったことはあったのですが、赤狩りの頃には既に共産主義思想には幻滅していました。
赤狩りに屈し、一度は公聴会での証言を拒んだものの、司法取引で共産主義の疑いのある者の11人のリストを渡し、ハリウッドを追放されることなく映画監督を続けることができたカザン 。
自らの行為について70年代には

「共産主義者と呼ばれるくらいなら裏切り者と呼ばれる方がまし」

「同じ事態が起きれば何度でも同じことをする」と述べています。

50年代の赤狩りの中でカザンが撮影した映画が『波止場』。アカデミー作品賞にも選ばれた名作です。

主人公はマーロン・ブランド演じる港湾労働者のテリー。ボクサーとしての港湾労働に従事する青年です。
この港湾の仕事はマフィアが牛耳っており、テリーもその一員としては己の正義を貫き、マフィアを告発します。
このシーンは「『波止場』はエリア・カザンが自らの告発を正当化しようとした場面だ」と多くの人に指摘された場面です。
「私も当時は非難の的だった」

カザンは『波止場』の撮影を振り返ってそう言います。友人らを売った「裏切り」には当時から批判の声が大きかったそうです。
実際に撮影中、カザンには常に護衛がつき、それでも一度襲われたことがあるとインタビューでカザンは述べています。

赤狩りに屈しない男を描いた『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

そんなカザンと対極にいたのが脚本家のダルトン・トランボ。カザンは『波止場』などでアカデミー賞を受賞していますが、トランボも名脚本家として、『ローマの休日』『黒い牡牛』でアカデミー賞を受賞しています。

両社の功績は対照的ですが、人生の歩みは対称的でした。

カザンがハリウッドで順調にキャリアを重ねていたころ、トランボは「ハリウッド・テン」の一人としてハリウッドを追放されていました。トランボの名誉回復がなされたのが1970年、全米脚本家組合功労賞の授与式のこと。

それまでのダルトン・トランボの苦悩の日々と戦いを描いたのが『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』です。

監督はジェイ・ローチ。コメディ映画『ミート・ザ・ペアレンツ』で知られる監督でもありますが、今作はシリアスで写実的にダルトン・トランボに降りかかる困難と彼の不屈の精神を描いています。
ジェイ・ローチ自身「ハリウッド・テン」の一人、エドワード・ドミトリクに南カリフォルニア大学で師事しています

また今作の脚本を務めたジョン・マクナマラは「ローマの休日」でトランボに名義貸しをしたイアン・マクレラン・ハンターにニューヨーク大学で師事しています。ハンターも、トランボに共感を示していましたが、彼自身ものちにブラックリストに名前が加えられることになります。

トランボの名誉回復と時を同じくして、カザンなどの赤狩りの「告発者」はハリウッドでの地位を失うことになるのです。

もっともカザンはその後も「共産主義者と呼ばれるくらいなら裏切り者と呼ばれる方がまし」と自らの行為を省みることはありませんでしたが、ただ赤狩りにおいて映画監督は映画監督ゆえの苦しみがあったとジェイ・ローチは述べています。

「監督は毎日現場に来ねば撮影は進まない、映画監督は偽名でやるわけにはいかず、ただ職を失うだけ」

ジェイ・ローチは脚本家と映画監督の違いについてこう答えています。事実、公聴会で信念を貫き通した映画監督はエイブラハム・ポロンスキー、ハーバート・ビーバーマンのみと言われています。

その後カザンの名誉回復がなされたのは1998年。弟子であるマーティン・スコセッシの尽力により、アカデミー賞名誉賞がカザンに授与されました。

トランボに遅れること30年の月日が経っていました

その後の2003年にエリア・カザンは亡くなっています。

赤狩りの影響から生まれた名作『ローマの休日』

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オードリー・ヘプバーンを一躍スターにさせた名作『ローマの休日』も赤狩りと深い関わりを持つ映画です。

実は『ローマの休日』の脚本を手掛けたのはダルトン・トランボ。しかしトランボ自身は映画の製作時には赤狩りの影響でハリウッドを追放されていました。

そのため『ローマの休日』 公開時には友人のイアン・マクレラン・ハンターの名前を脚本家の名義を借りて公開されています。当時このように赤狩りの追放者に自分の名義を貸す仕事は「フロント」と呼ばれました。

脚本自体は赤狩りの始まる前の1940年代中盤には完成していたそうで、悲しみや悲劇を感じさせない明るい内容はそういったことも影響しているのかと思います。

監督のウィリアム・ワイラーはドイツ出身のユダヤ人で、第二次世界大戦中にはイギリス空軍に従軍した経験も持っています。
ワイラーは赤狩りに最後まで抵抗した映画監督としても知られており、トランボのような赤狩りの犠牲になった人に対しても非常に好意的であったと言われています。
戦争の悲惨さ、ドイツがユダヤ人に行ったような迫害や差別と無関係ではなかったために、ワイラー自身も赤狩りという魔女裁判には抗議せずにおれなかったのでしょう。

俳優にとっての赤狩り『エド・ウッド』

前述のトランボのように脚本家など顔のわからない裏方であれば偽名での仕事も続けられたでしょうが、顔を売る俳優はそうはいきません。

赤狩りにおいて嫌疑のかけられた俳優は仕事をするにはもはや仲間を告発するしかなく、俳優の中で赤狩りに屈しなかったのはわずかと言われています。

では、赤狩りに遭ってしまった俳優はどうなるのか、ここではティム・バートン監督の映画『エド・ウッド』を見ていきましょう。

ちなみにタイトルのエド・ウッドとは「史上最低の映画監督」との異名を持つ実在の人物、エド・ウッド監督のこと。

ジョニー・デップがこの迷監督をユーモラスに演じています。

『エド・ウッド』の舞台は1950年代のアメリカ。映画監督としての成功を夢見る若者エド・ウッドは情熱はあるものの、才能がなく、同い年で成功を納めるジョージ・ウェルズと自分を比べながら悶々とした日々を過ごしていました。

さて、そんな中にエドの耳に飛び込んだのは『世界初の性転換手術成功』のニュース。エド・ウッドは自身の女装癖も織り混ぜて、『グレンとグレンダ』として映画化しますが、出来上がった作品は支離滅裂な内容でスポンサーは大激怒。

そんなエド・ウッド には人生を変える出会いが待っていました。かつてホラー映画で一世を風靡した役者、ベラ・ルゴシです。
ベラ・ルゴシの名前を全面に押し出し、エド・ウッドは更なる作品を撮ろうとするも、またも評価は酷評の嵐。

そんな時に目にしたのはホラー番組の司会者として人気だった女優、ヴァンパイラの赤狩りによるハリウッド追放のニュースでした。

行き場を失ったヴァンパイラに声をかけ、エド・ウッドは彼女を新作映画にキャスティングします。

『エド・ウッド』の中で描かれる赤狩りは、映画の中で巻き起こる数多の出来事の一つに過ぎません。

しかし、赤狩りによって、俳優も天から地へ何もかも堕ちてしまうことを『エド・ウッド』では垣間見れます。

赤狩りの終焉

次第にマッカーシーの強硬な姿勢は国民から批判的な目で見られるようになり、赤狩りは50年代の半ばに終焉を迎えます。

しかし、今日まで大きなしこりをアメリカに残しています。

エリア・カザンにアカデミー賞名誉賞授与されました時、エド・ハリス、イアン・マッケランは腕組みをして座ったまま拍手すら拒みました。スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしましたが、立ち上がるのは拒否しています。

出席者全員のスタンディング・オベーションが慣例の中、これはかなり異常なことでした。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』で、トランボは赤狩りの時代についてこう述べています。

「あの暗黒の時代をふりかえる時、英雄や悪者を探しても何の意味もありません。
いないのですから。いたのは被害者だけ。
なぜなら誰もが追い込まれ意に反したことを言わされ、やらされたからです。
ただ傷つけあっただけ、お互い望んでもいないのに。」

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