【映画 レビュー※ネタバレあり】沈黙-サイレンス- 


沈黙-サイレンス- [Blu-ray]

キリスト教文学として名高い遠藤周作の『沈黙』をハリウッドで映画化した作品。
監督はタクシードライバーやマーティン・スコセッシ。
17世紀の日本を再現するため、撮影は台湾で行われています。

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「沈黙-サイレンス-」のスタッフ・レビュー

監督
マーティン・スコセッシ

脚本
ジェイ・コックス
マーティン・スコセッシ

原作
遠藤周作
『沈黙』

製作
ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ
バーバラ・デ・フィーナ
ランドール・エメット
エマ・ティリンジャー・コスコフ
アーウィン・ウィンクラー
マーティン・スコセッシ

出演者
アンドリュー・ガーフィールド
リーアム・ニーソン
アダム・ドライヴァー
窪塚洋介
浅野忠信
イッセー尾形
塚本晋也
小松菜奈
加瀬亮
笈田ヨシ

「沈黙-サイレンス-」の予告編

「沈黙-サイレンス-」のあらすじ

17世紀、江戸時代初期― ポルトガルで、イエズス会の宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)のもとに、日本でのキリスト教の布教を使命としていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が日本で棄教したという噂が届いた。尊敬していた師が棄教したことを信じられず、2人は日本へ渡ることを決意する。

2人は中国・マカオで日本人の漁師にしてキリシタン(キリスト教徒)であるキチジロー(窪塚洋介)の手引きにより、日本のトモギ村に密入国する。そこでは隠れキリシタンが奉行の弾圧に苦しみながらも信仰を捨てずに祈り続けていた。司祭はなく、「じいさま」と呼ばれる村長のイチゾウ(笈田ヨシ)だけが洗礼のみを行えるという環境だった。2人は村人達と交流を交わし、布教活動を行っていく。キチジローはかつて弾圧を受け、踏み絵により棄教を示したが、自分以外の家族は踏み絵を行えず、眼前で処刑されたのだという。罪の意識を背負い苦しむキチジローは自分の村である五島列島にも2人の宣教師を招き、布教を広める。そこでフェレイラの手掛かりも掴み、任務は順調かと思えた。

しかし、キリシタンがトモギ村に潜んでいることを嗅ぎ付けた長崎奉行・井上筑後守(イッセー尾形)が村に訪れ、2人の宣教師の身柄を要求した。村人達は必死に匿ったが、代償としてイチゾウ、キチジロー、そして敬虔な信者であったモキチ(塚本晋也)を含む4人の村人が人質となった。奉行は踏み絵だけではキリシタンをあぶり出すことは困難と考え、「イエス・キリストの像に唾を吐け」と強要した。4人の内キチジローを除く3人は棄教しきれず、処刑されることとなった。

自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩する。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99_-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9-
沈黙 -サイレンス- – Wikipedia

感想・レビュー

人間とはなにか
さて、この作品では信仰を通じて人間とはなにかを深くあぶり出しています。
キリシタンへのあまりの弾圧や拷問に棄教する神父や村人もいれば、命を捨てても信仰を保ち続ける人もいます。
主人公格のロドリゴ神父は、日本に来日してその弾圧の強さ、キリシタンたちの生活の厳しさに強く動揺します。
もう一人、共に来日したガルペ神父とは違い、彼の宗教観では『内なる信仰』を重視し、踏み絵や物を崇める偶像崇拝を重要視してはいません。

それでも『なぜキリスト教徒である彼らがこれほど苦しむのか?』と信仰への疑念が少しずつ彼のなかに広がってゆきます。
今現在においても、日本におけるキリスト教徒の割合は1%に満たず、西洋文化とは対称的にほとんど広まっていない状態です。
これはキリスト教の世界観(一神教、自然と人間を明確に区別する)と、日本の古来からの神道の世界観(多神教、人間も自然の一部であり、あらゆるものに神を見いだす)が相容れなかったのでしょう。
今作の舞台となる1640年はキリシタンである天草四郎を中心とした島原の乱の直後で弾圧が厳しさを増した頃です。それでも信仰を捨てない村人たち。

一神教の強さ
キリシタン弾圧の背景にあったのは二つの理由。

ひとつは植民地政策。
キリシタンの宣教活動は西欧の植民地政策と関係していました。
それは、最初に宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送りこみ、その地を征服し植民地にするという政策。

もうひとつは大名の影響力にイエス・キリストの影響力が勝るのを防ぐため。
大名がキリシタン化した理由は貿易相手の宗教に改宗することで貿易でより多くの利益を出すことでした。
奏した大名の中から幕府をしのぐ経済力を持つ大名が現れるのを恐れたためです。

キチジローの弱さ、そして人間らしさ

窪塚洋介の演じるキリシタン、キチジロー。
本作では彼自身苦しみながらもまた『困難』神父にもたらし、彼を幾度も惑わせます。
信仰を捨てきれずにいるものの、弱さから踏み絵や裏切りに手を出し、それでもまた告悔を繰り返す。
彼は赦すべき価値のある人間なのか?

キチジローの存在が神父を惑わせます。

真理とは何か?

神父は劇中を通してキリストの教えを時代や場所が変わろうと普遍のもの全てに通じる真理と考えています。
後半、再会したフェレイラ神父は日本を『沼のような国』と称します。
沼地の植物のようにキリスト教が根付かない土地だという意味なのですが、そこで加えて『日本で受容されているキリスト教は本来のものとは変質してしまっている』と語ります。
キリスト教における御子の概念も、日本人にとっては息子ではなく、太陽のことであるとし、また殉教した百姓はイエスのために死んだのではなく、ロドリゴ神父の為に死んだのだとも。
そして、今なお拷問を受けている百姓を救えるのはキリストではなく、ロドリゴ神父の棄教なのだと諭します。
ロドリゴ神父は人を救うために棄教を決意します。

この場面で、真理は『人を救うこと』にあります。もちろん大きなジレンマをともなう行為ではありますが、イエスの言葉もあり、棄教することでキリスト教の目的を達するのですが、この瞬間、キリスト教が真理ではなく、その目的の人を救うことが真理となったのだと感じました。

もしかしたら人を救うことについて、どんな教義の名前もその行動の前においては無用なのかもしれません。

信仰の行方と折り合い

しかし、フェレイラ神父が後年、ふとしたときに『主』という言葉を口に出します。
棄教した『背教司祭』であっても、その心の中までは誰も計り知れません。
またそれはロドリゴ神父にしても同じことです。

そこにあるのはマーティン・スコセッシ監督の祈りではないでしょうか?
『沈黙』は単に表向きのキリスト教ではなく、キリスト教の根本的な部分をあぶり出す作品です。

スコセッシ監督は沈黙を通じて、キリスト教とは何か?心理とは何か?そして、キリスト教はどんな沼地においても、例え根付かずとも意味もないわけではない、という祈りを提示したかったのだろうと思います。

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