今や日本を越えて世界で『怪獣』の代名詞となったゴジラ。
ゴジラがこの世に登場してから60年を超え、そして今なお新作が作り続けられています。
そのゴジラとは一体何なのか。
僕なりの『ゴジラ論』です。
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ゴジラとは何か
ゴジラとは神である。
いきなり答えに行きましたが、これに尽きます。
ゴジラは神なんですよね。モンスターではなくて。
古来より日本人にはあらゆるものに神が宿るという考え方がありました。
道に咲いている花や石にも神が宿るという考え方です。
加えて、多様な宗教を柔軟に受け止める柔らかさも持ち合わせていました。
仏教はもちろん、クリスマスやハロウィン、太陽信仰まで(日本独自のものに変質はしつつも)あらゆる宗教が私たちの生活に混在し、また共存しています。
そんな土壌があったからこそ、ゴジラは日本人には神として受け入れやすかったのだろうと思います。
もちろん、そこにはゴジラを定義する素晴らしいストーリーがありました。
ゴジラの始まり
戦後まもなくの頃、アメリカでレニー・ハウゼン監督の『原子怪獣あらわる』が公開されます。ゴジラは直接的にこの作品に刺激されて産み出された映画です。
また、当時、ビキニ海上で行われたアメリカの核実験の巻き添えで日本の漁船の乗組員が被曝したことも大きな問題となっていました。
戦後10年足らずで再び原爆の恐怖が日本に襲いかかってきたわけです。
そこで企画されたのがゴジラ。
核のエネルギーを吸収し巨大化、さらに口から放射能を撒き散らす。
まさに『核の申し子』といっても過言ではありません。
今再び現実のものとなった核の恐怖を象徴する存在こそがゴジラだったのです。
1954年の初代ゴジラの劇中の設定として、ゴジラはもともとジュラ紀に生息していた水棲爬虫類が陸生へ進化する途中の生物とされています。
それが人間が作った核の影響を受け怪物化してしまい、人間の脅威となる。
まさに寓話であり、人の愚かしさを端的に表現したのが1954年のゴジラという映画。
実際にゴジラを鑑賞した原作者の香山滋氏はオキシジェン・デストロイヤー(映画に登場する架空の化学兵器)でゴジラが死ぬシーンでゴジラが可哀想だと涙を流したそう。
これはゴジラを倒すべき存在としてではなく、ある意味で人間に振り回される哀しい生物として見ることができたからでしょう。
また同様の手紙は公開当時多く届けられたといいます。
もちろん神である以上、時には人を戒める存在であったり、また人を守る存在でもあります。
その人を守るという部分を推し進めたのが昭和のゴジラシリーズでしょう。
ゴジラシリーズの歩みと広がり
昭和のゴジラシリーズのゴジラはもはや脅威ではなく、日本を守ってくれる存在。そのキャラクターの固定化と同時に子供からの人気も出始め、一気にゴジラの大衆化、ヒーロー化がすすみました。
その結果、ゴジラは神ではなく、ゴレンジャーやウルトラマンのような正義の味方に成り下がってしまったのです。
いつの間にか息子まで作って。
当初のキャラクターの根幹を失ったゴジラはカラーテレビの普及にともなう映画会の斜陽期とも重なり、公開するごとに動員が下がっていくというコンテンツになってしまいました。
(※ゴジラ対ヘドラのように社会派で意欲的な作品も昭和ゴジラには存在する)
しかしながら昭和ゴジラの乱発には、海外ですでに人気だったゴジラ映画で外貨を稼ぐという目的もありました。
そう、その結果もあり海外の第一線の映画人にもゴジラファンは多いのです。
例えば
スティーブン・スピルバーグ
『スピード』のヤン・デ・ボン
『シザーハンズ』のティム・バートン
『ハロウィン』のジョン・カーペンター
名だたる映画監督がゴジラのファンを公言しています。
(スピルバーグは幼い頃にゴジラを見て『どうやったら怪獣をあんなに滑らかに動かせるのかわからなかった』と発言しています。)
さて、平成になると再びゴジラは人類の脅威として描かれます。
キングギドラからデストロイアまでは一貫した世界観で描かれるわけですが、明確にゴジラが脅威となるのは2作めのゴジラ対モスラまでで、スペースゴジラ以降はより凶悪な敵を倒すための必要悪としての役割が強くなります。
デストロイアでゴジラの死を描き、シリーズに一旦幕を落とすことになるのですが、それはハリウッドでゴジラが制作されるためでした。
ハリウッド版ゴジラ
そして1998年、インデペンデンス・デイのローランド・エメリッヒ監督の「GODZILLA」が公開されます。
フルCGのゴジラは日本の何倍もの予算をかけ、ジュラシックパークにも通じる、ハリウッドらしい作品でした。
ところがこのハリウッド版ゴジラは興業収入こそよかったものの、ゴジラ映画としては酷評されます。
なぜだったのでしょうか?
聖書では自然は全て人間のために神が作ったものとなります。その場合、自然の脅威は畏怖すべきものではなく、『克服』するべきものになります。
ゴジラも同じで、倒すべきモンスターとしてしか認識されません。
だからこそ、ラストでゴジラが死んでしまう。(しかも通常兵器で!)
怪獣王(king of Monsters)と呼ばれ、通常兵器では決して死なない無敵の存在。
圧倒的な人類の脅威として君臨していたゴジラのイメージとは程遠いものに観客は戸惑ったのでしょう。
前述のジョン・カーペンターも本作を評して「最低だ!」とコメントしています。
2000年代のゴジラ
さて、そんなハリウッド版ゴジラの評価を受けて、日本のゴジラを本家として再度知らしめなくては!
との思いから2000年代のゴジラはスタートします。たくまで私見で恐縮ですが、2000年代のゴジラは一言でいうと迷走していたなと。。
もちろんこの辺りで僕は思春期真っ只中でゴジラから離れていた時期でもありました。
(当のゴジラもとっとこハム太郎との併映だったりと子供向けの枠から抜け出すことは難しかったようです。)さて、平成のゴジラがキングギドラからデストロイアまで一貫した世界観で構成されていたのに対して、2000年代のゴジラは映画の公開の度にそれまでの世界観を一新され、ゴジラデザインも、急に爬虫類になったかとおもうと、白目だけのデザインになったりと、これもまた一貫しないものでした。
おまけに集大成として制作されたはずのFINAL WARSに至っては人間のアクションシーンをもりこみ、しかもマトリックスの劣化コピーのようなしょうもないもので、怪獣も全部出せばいいんだろと言わんばかりに総出演。
本来のゴジラの持つ重厚なテーマ性とはもっともかけ離れた幕切れとなってしまいました。
ちなみに2000年代のゴジラのなかでは金子修平監督作のゴジラが好きです。あれは原爆とは違った、戦争で亡くなった日本人の業を背負ったゴジラの姿を描いていました。
ハリウッド版ゴジラ
ギャレス・エドワーズ監督の2014年の映画。
久々の素晴らしいゴジラ映画でした。
ハリウッドのスケールとエンターテイメントはそのままに、
原爆にも言及されていて。
主演はキック・アスのアーロンテイラージョンソン。あのひ弱なヒーローが正統派のマッチョヒーローになってます。
ゴジラ映画をそれまで見たことのなかったというアーロンですが、そんな彼に対して、ギャレス・エドワーズは『一作目のゴジラだけ観ればいい』とアドバイスします。
このエピソードからも、ギャレスがゴジラのレガシーをどれだけ重視しているかがわかります。
ちなみに渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士。ネーミングは1954年の「ゴジラ」でゴジラを倒した芹沢博士と作品の監督である本多猪四郎の名前からとられています。
シン・ゴジラ
シン・ゴジラは現実の恐怖をゴジラに集約させた、第一作目をおもわせる作風でした。
ただこのゴジラが象徴しているのは震災。
それまでのゴジラが人間の行いが引き金になって生まれた存在だとしたら、
シン・ゴジラはその意味では人間とのかかわりを超越した存在とも言えます。